1927(昭和2)年8月、毛沢東の率いる中国共産党と対峙していた蒋介石は、国民革命軍総司令官を辞職し、その年の9月末に来日して田中義一首相と会談しています。
場所は田中義一首相の青山私邸。
その会談で田中首相は、蒋介石に対し「(中国共産党の勢力拡大を阻止すべく)まずは長江以南をまとめることが急務だ」と述べています。
要するに田中首相は「直ちに北伐を行うのではなく、南方を固めてから後に北伐すべきだ」と助言したわけです。
田中首相の助言を受けた蒋介石はまもなく帰国し、翌年(1928年)の4月、再び国民革命軍総司令として第二次北伐の軍(南軍)を進めることになります。
対する中国共産党(北軍)は、大元帥・張作霖が北京に在って、7つの方面軍(兵力100万)を擁していました。
4月7日に「北伐宣言」を発した蒋介石軍(国民革命軍=南軍)は、4月の中旬にははやくも済南を包囲する態勢に入りました。
済南は、中国山東省の西部に位置し、現在でも省都です。
とうじの済南には、多くの日本人居留民がおりました。
ところが、革命軍(南軍)の北上につれて、済南にいる日本人居留民に危機が及びます。
南軍が済南に入ると同時に、日本国旗侮蔑や反日ビラが撒かれるなどの、いわゆる「反日暴動騒ぎ」が発生したのです。
それは5月1日のことです。
市内は緊迫の様相を呈したわけですが、翌2日、南軍総司令官・蒋介石から「治安は南軍が絶対に確保するので日本軍の警備を撤去してほしい」との要請がありました。(当時のChina大陸には日本人居留民を保護するために日本軍が駐留していました)
蒋介石の約束を信じた日本軍は、夜を徹して日本人居留民を守るための防御施設を撤去します。
しかしながら、事件は日本軍が警備を撤去した直後の5月3日朝に発生します。
満洲日報の取次販売店・吉房長平方を、暴兵と化した南軍兵士が襲撃略奪したのが発端です。
なんと南軍兵(中国兵)は、助けに駆けつけた日本人巡査にも暴行を加えたため、日本軍が現場に急行します。
中国兵はたちまち遁走して兵舎に隠れ、こんどは兵舎の中から銃撃を加えてきます。
これにより、市内は交戦状態に入り、中国兵による乱射略奪は一挙に市内に拡大していきました。
まもなく両軍の間に停戦の申し合わせができたのですが、中国軍はこれを無視し、白旗を掲げて停戦を呼びかける日本兵を射殺する暴挙に出ています。
これがいわゆる「済南事件」です。
済南事件において、中国兵が日本人居留民に加えた暴虐凌辱は言語に絶する悪魔鬼畜の所業であり、このブログで書くことも憚れるほどです。
事件直後に惨死体を実見した南京駐在武官・佐々木中佐の手記に、その凄惨さが詳しく記されています。
当時、この種の事件は済南だけではありません。
南京(昭和2年3月)でも、通州(昭和12年7月)でも、日本人居留民が中国兵に惨殺凌辱される事件が発生しています。
私たち戦後日本人は、GHQ製「自虐史観教育」により「侵略のために日本軍がChina大陸に送られた…」と教えられてきましたが、それはまったくの嘘。
我が国は、日本人居留民を保護するために日本軍を駐留させざるを得なかったのであり、その日本軍に対し中国兵が意図的にチョッカイを出してきたために支那事変が勃発するに至ったのです。
きのう、中国陝西省の「すし店」で火災がありました。
店の入り口で突然に炎が上がったあと、何者かが店の外に逃げ出す様子が監視カメラに映し出されていることから、放火の疑いがあるらしい。
福島第一原発の処理水放出との関連はわかっていないようですが、もしそうであれば、あの国の本質はまったく変わっていないと言わざるをえない。