今日は、終戦記念日です。
あるいは「終戦の日」とも言いますが、正式名称は「戦没者を追悼し平和を記念する日」であり、日本政府が全国戦没者追悼式を主催する日です。
なぜ8月15日が、終戦を記念する日とされたのでしょうか。
例えば、天皇陛下が終戦の詔書を煥発(詔勅を発布すること)された日であるかというと、そうではありません。
陛下が終戦の詔書を煥発されたのは、前日の8月14日です。
あるいはポツダム宣言を受諾した日でもありません。
日本政府が最終的にポツダム宣言の受諾を通告したのも、8月14日のことでした。
では、大本営が帝国陸海軍に停戦命令を下達した日かというと、それも違います。
大本営が全軍に停戦命令を下達したのは、8月16日の午後4時です。
むろん、降伏文書に調印した日でもありません。
降伏文書に調印したのは9月2日で、降伏文書に署名することによって停戦協定が正式に成立したのですから、8月15日は停戦協定が成立した日でもありません。
言うまでもなく、8月15日は終戦の詔書を昭和天皇が玉音放送され、全国民が拝聴した日です。
玉音放送について特筆すべきは、海外に派兵されていた軍人さんを含めて、600万人がピタリと整然として戦闘を止めたことです。
誰一人反抗する者もなく粛々と戦闘を止めたという点は、実に我が国らしい特徴です。
例えば8月14日の夜には、いわゆる「玉音盤奪取事件」があり、陸軍省勤務の一部将校らにより皇居が危うく占拠されそうになったほどに、まだまだ軍部内には充分に戦意が横溢していたわけですから、天皇陛下のご詔勅を聞くなり、すぐさま戦闘行為を停止したのは凄いことだと思います。
さて、意外と知られていませんが、陛下のご詔勅(詔書)を起草したのは、陽明学者であり哲学者でもあられた安岡正篤(やすおか まさひろ)氏です。
安岡さんが起草した文書を鈴木内閣が閣議を開いて承認し、終戦のご詔勅となったわけです。
終戦のご詔勅といえば、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」の部分が実に印象的です。
この「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」の前に次の一文があることを知る国民は少ない。
原文をそのまま記載すると「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」です。
現代文に直しますと「朕は時運の赴くところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」となります。
時運の赴くところ…
実は安岡さんの起草分の原文は「時運の赴くところ」ではなく、「義命の存するところ」となっていました。
それが閣議の段階で、「時運の赴くところ」に変更されてしまいました。
閣僚の中から「義命の存する…という言葉では難しすぎて国民には理解しづらいのではないか…」という意見が上がり、ある閣僚の提案で「時運の赴くところ」に変更されてしまったのです。
ところが、安岡さんから真意を聞いていた書記官長の迫水さんは、なんと閣僚らの議論のなかで「原文のままにすべきだ…」と意見したそうです。
書記官長は今で言うところの「内閣総務官」(事務方)であり閣僚(国務大臣)ではありませんので、誠に勇気ある発言だったと拝察します。
迫水書記官長の言う安岡さんの真意とは「日本は負けそうだから降伏するのではない。我が日本国の過去(歴史)と未来、そして国民の命を護るため、また戦後復興のために今降伏することこそが義であり、果たさねばならぬ命なのである」ということだったと思います。(三宅解釈)
それが「時運の赴くところ…」となってしまうと、「行きあたりばったりで何の哲学もなく、ただただ日本は負けそうだから降伏します」と言っているに等しい。
残念ながら閣議では「時運の赴くところ」で決着し、あの玉音放送となったわけです。
陛下とはいえ、内閣が承認した詔書を煥発せざるを得ません。
1945年8月15日から約7年間、我が国は過酷な占領政策を受け、1952年4月28日に独立(主権)を回復することになりました。
独立を回復して以降の日本の政治はどうでしょうか。
とりわけ平成以降の日本は、常に「時運の赴くところ…」の行きあたりばったりの政治が行われているような気がします。
そう思うのは私だけでしょうか。