本日も、先の大戦について思いを馳せたい。
昨日、一昨日と述べてきたとおり、ミッドウェーでの敗戦こそが我が国にとっては「あの大戦」の分水嶺だったと思います。
とりわけ、「敵空母発見…」の報が入ったときの南雲司令長官の指揮官としての判断の悪さは致命的でした。
少し説明が必要となりますが、当時、攻撃機が爆撃を行う場合、対艦隊攻撃用の爆弾(雷装)と対基地攻撃用の爆弾(爆装)は異なりました。
前者は800キロ爆弾であり、後者は250キロ爆弾です。
南雲率いる空母機動部隊は、ミッドウェー島への攻撃を加えるために爆装への兵装転換を済ませていた航空隊が空母艦上で待機していました。
魚雷では基地を攻撃することはできないので、爆装へと兵装転換していたわけです。
そこに、「敵空母発見…」の知らせが入ります。
そのとき名将・山口多聞は「今から魚雷(800キロ爆弾)に兵装転換している時間はない。爆装(250キロ爆弾)のまま発進させるべきだ…」と主張しました。
なぜなら、爆装(250キロ爆弾)でも敵空母を攻撃することは可能であり、もたもた兵装転換などしているときに攻撃を受けたら最悪の事態を招くからです。
ところが南雲は、より破壊力のある雷装(800キロ爆弾)への兵装転換にこだわって山口多聞の助言を退け、再び雷装への兵装転換を命じます。
再びの兵装転換となれば、空母の飛行甲板はたくさんの250キロ爆弾やら800キロ爆弾やらで覆い尽くされ、まるで火薬庫です。
そこに案の定、山口多聞が恐れていたとおり、敵空母から発艦した敵の爆撃機が襲いかかったのです。
敵は爆弾を一つ落とすだけでいい。
あとは兵装転換中の日本軍の爆弾が次々と爆発してくれます。
これにより日本側は約300もの戦闘機と優秀な飛行機乗りたちを失うことになってしまいました。
実はこのミッドウェーの海戦の2ヶ月前、セイロン沖海戦でも同じことがありました。
セイロン沖海戦とは、我が連合艦隊の空母機動部隊がセイロン島に基地を置いていたイギリス東洋艦隊を撃破し、遠くアラビア半島まで追いやった海戦です。
この海戦でも、南雲機動部隊は「二次攻撃の必要あり」との報を受けて、敵艦隊に備えて待機していた艦上攻撃機の雷装を爆装に切り換える兵装転換を行っていました。
ところがこのとき、索敵機から「敵艦発見」の報が新たに入ります。
なんと南雲は再び雷装への兵装転換を命じます。
度重なる換装作業のため各空母の飛行甲板は混乱の極みです。
やはり爆弾や魚雷が散乱して危険な状態です。
このときは換装作業が危機一髪で間にあったのですが、残念ながらこのときの教訓がミッドウェーで活かされることはありませんでした。
因みに、この海戦でも南雲は積極的な攻撃を行うことなくインド洋から撤退してしまいます。
結果、イギリス海軍の主力を温存させてしまい、帝国海軍はインド洋の制海権を奪うことはできませんでした。