あの戦争の分水嶺(後編)

あの戦争の分水嶺(後編)

海軍内でのゴタゴタの調整に時間を費やし、大きな海戦を前にして暗号を変更することもなく、作戦計画も不十分なままに連合艦隊はミッドウェーに向かうことになりました。

このとき既に米国は日本海軍の暗号解読に成功していました。

よって米軍はミッドウェーで手ぐすねを引くように帝国海軍を待ち受けていたわけです。

因みにこれは渡部昇一先生から教えて頂いたことですが、このころの帝国海軍は機密保持も実にいいかげんだったそうです。

大作戦を前にして、広島の呉あたりの床屋さんや芸者さんたちが「今度はミッドウェーだそうですねぇ、兵隊さん」と言っていたらしい。

まことに酷い話です。

さて、もっと不可解だったことがあります。

それは、とにもかくにもミッドウェーに向かった連合艦隊ですか、なぜか連合艦隊の旗艦である戦艦大和が空母機動部隊のはるか後方、500マイルも後ろを航行していたことです。

あのとき、ミッドウェーの要塞砲の射程距離は、戦艦大和の主砲の射程には全く及びませんでした。

よって、もしも空母機動部隊とともに戦艦大和が海戦に参加していれば、戦局の展開はまったく違ったものになっていたはずです。

なぜ戦艦大和は機動部隊の500マイル後方を航行していたのか?

私はその理由を聞いて、実にがっかりしたものです。

当初、例え500マイル後方で戦闘に関わらずとも、一応は作戦に参加したという実績となり、後の賞与や恩給にプラスに加算されたらしい。

それだけの理由で、我が連合艦隊の主力部隊である空母4隻と戦闘機を失い、そして何より300人もの優秀な飛行機乗りたちを犠牲にしたのです。

戦艦大和が完成してからの山本五十六はどうかしていたとしか思えません。

「これからは航空戦の時代だ…」と言ってそれまでの大艦巨砲主義を否定し、世界に先駆けて空母機動部隊による航空機攻撃を発明し運用した山本五十六の手腕はすごかったと思います。

その山本五十六が、戦艦大和に乗り込んで以来、大艦巨砲主義に戻ってしまったかのようです。

ミッドウェー海戦で機動部隊の司令長官を務めた南雲忠一はもっとひどかった。

南雲はもともと水雷の出身で、空軍については素人でした。

その南雲の下に山口多聞(少将)という優秀な司令官がいて、この人には航空隊での豊富な経験がありました。

もしも南雲ではなく、この山口多聞が司令長官だったら、例え戦艦大和がいなくても日本はミッドウェーで勝っていたかもしれない、少なくともあんな惨めな敗北は避けられていたと私は思っています。

ミッドウェー島を攻撃した際、それまではいないと思われていた敵の空母が「いた」という電報が偵察機から南雲司令長官に入ります。

そのとき、「直ぐにでも全機を出撃させるべきだ」と山口多聞は南雲司令長官に意見具申したそうです。

にもかかわらず、南雲の誤った判断でぐずぐずしていたために(いわゆる、兵装転換による遅れ)、敵の急降下爆撃をくらって、虎の子の空母4隻を沈められてしまったのです。

むろん空母だけでなく、それとともに優秀なベテランパイロットたちもみんな死んでしまったのです。

即ち、南雲のせいで日本は取り返しのつかない痛手を被ったのでございます。

偵察機から「敵空母発見!」の電報が入ったとき、山口多聞の助言どおりにやっていれば損害は軽微だったはずです。

爆弾や魚雷を満載した飛行機が甲板に並んでいるところに急降下爆撃をくらったのですから、火薬庫に爆弾を落とされたのも同然です。

偵察機からの情報が入ったとき、山口多聞の助言どおりに全機発進させていれば、優秀な零戦部隊が敵機をことごとく撃ち落としていたはずです。

戦後の自虐史観に染められている人たちには理解できないかもしれませんが、当時の零戦は現在のF22ラプターみたいなもので世界最新の戦闘機でした。

当時、零戦に勝る戦闘機は無かったのです。

要するに、南雲の判断ミスこそが、ミッドウェーでの大敗北の最大の原因です。

実は、真珠湾攻撃の際にも南雲はやらかしています。

真珠湾攻撃での第一次攻撃は成功したものの、敵空母は一つも寄港しておらず沈めることができませんでした。

ここでも山口多聞は「もう一度出撃して(第二次攻撃をして)、海軍工廠(石油タンクや修理工場)を攻撃すべきだ」

と意見具申をしています。

このとき、もしも第二次攻撃をやられていたら、ハーマン・ウォークが言っていたように、米国は軍の主力を西海岸に向けざるを得ないことから戦局は一変していたと思われます。

また、ニミッツ提督も「あのとき、もしも第二次攻撃で海軍工廠を攻撃されていたら、米海軍は半年間にわたり太平洋に部隊を展開することはできなかった」と述べています。

なのに、このときも南雲は山口多聞の助言を無視し、第二次攻撃をせずに艦隊を引き上げています。

その知らせを聞いた総司令官の山本五十六は、「ああ、南雲ならやらないだろうな…」と呟いたらしい。

とはいえ、やる気のない南雲を司令長官にしたのは山本五十六です。

なぜかというと、南雲は山口多聞より海軍兵学校の卒業年次が1年ばかり上だったからです。

たったそれだけのことで…

もしも山口多聞が司令官だったら…

歴史に「もし…」はないと言われるかもしれませんが、とはいえ「もし…」がなければ洞察できない。

あの大戦から学ぶべきことが沢山あります。