78年前の今日(8時15分)、直径150メートルの巨大の火の玉が広島上空を覆いました。
人類初と言っていい殺戮兵器が使用されました。
爆心地から半径約500メートル以内の人々や住宅は4000度の高熱で焼き尽くされ、広島市内および周辺の建物はほとんど見る影もなくなり、その数は正確でないにしてもその年末までに14万人余の国民が死亡されました。
「原爆投下命令」は7月24日、ポツダムにいるトルーマン米大統領が正式承認し、8月3日以降に広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下することになっていました。
よく「原爆投下は、日本がポツダム宣言の受諾を拒否したのだから止むを得なかった…」と言われますが、ポツダム宣言は7月26日に発せられ27日に日本に到着しました。
7月24日の段階で既に投下命令が発せられていたわけですから、日本政府の受諾の遅れとは関係ありません。
また、「戦争の早期終結により、多くの米兵の生命が救われた…」などと言う輩もいますが、広島に原爆が投下される2ヶ月前から日本はソ連を仲介にして降伏する用意ができていました。
むろん、その意を米国側も知っていたはずです。
むしろ知っていたからこそ、日本が降伏する前に急ぎ投下したのだろうに。
あるいは「広島が軍港だったために狙われた…」などと言う人もいますが、ご承知のとおり爆心地は軍港ではなく市街地の病院です。
原爆の破壊力の大きさからすれば、爆心地が軍港であれ、病院であれ意味をなさない。
つまり、原爆による被害を測定するために、空襲によって被害を受けていない都市として広島が選ばれたのです。
なお、「早く戦争を終結させるために原爆投下は必要だった…」というのも理由にならない。
それなら、広島に投下した三日後の8月9日に、長崎にも原爆を投下する必要などない。
広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型、それぞれの威力の違いを測定するために二箇所に投下したのは明々白々です。
因みに、「ドイツは日本よりも半年早く降伏したために原爆投下を免れた…」と言われますが、仮に降伏していなかったとしても、白人国家であるドイツに原爆が投下されることはなかったと思います。
そこに有色人種で唯一、近代国家をつくりあげた日本の辛さがあります。
広島にウラン型原爆を投下したエノラゲイは翌年、長崎にプルトニウム型原爆を投下したボックスカーとともにアリゾナ州のデビスモンサン基地に回航されました。
ボックスカーはそこで退役が決められ、その後はオハイオ州デートンの国立空軍博物館に送られ、今も展示保存されています。
エノラゲイも同年に退役し、こっそりワシントンDCにあるスミソニアン博物館に譲渡されました。
スミソニアン博物館は、ご承知のとおり米国を代表する科学、産業、技術、芸術、自然史の博物館です。
要するに今なおエノラゲイは、スミソニアン博物館において、米国様が誇る科学技術の象徴的存在として誇らしげに常設展示されているのでございます。