政府の節約は国民の所得にならない

政府の節約は国民の所得にならない

課題が山積する我が国の政治…

長引くデフレにともなう国力の凋落と国民の貧困化。

インフラの脆弱化。

科学技術力の衰退。

地方の衰退と東京圏への一極集中。

非婚化による少子化の進展。

医療提供サービスの弱体化。

食料・エネルギー安全保障の危機。

東アジアにおける軍事バランスの崩壊にともなう国防上の危機などなど…

数え挙げれば切がないわけですが、これら諸問題の根底にあるのは、ことごとく「緊縮財政(=財政収支の縮小均衡主義)」です。

政府による緊縮財政が続くかぎり、国力の凋落も国民の貧困化も避けられないし、インフラ、科学技術力、医療サービス、防衛力を強化することもできないし、地方の衰退や少子化、そして食料・エネルギー危機を回避することもできません。

むろん、防衛力(基盤的防衛力)を諸外国並みの予算にすることもできません。

逆に言えば、もしも緊縮財政から積極財政(プライマリー・バランスの赤字拡大)に転じることができれば我が国が抱える多くの課題が解決されることになります。

なのに、どうして我が国の政治家たちは財務省と闘ってでも積極財政に転じないのか?

選挙で選ばれた人よりも、公務員試験に受かった人のほうが偉いからか。

そんなはずはない。

ただたんに、政治家や国民の多くが「おカネとは何か?」という貨幣観を間違えているだけの話です。

多くの人たちが、「おカネとは、金銀などの貴金属に価値を裏付けられたモノ」だと誤解しています。

こうした誤解は今にはじまったことではありません。

歴史的にみますと、アリストテレスやアダム・スミスもまたこうした誤解(おカネ=モノという誤解)を広めてしまった罪深き人たちです。

何度でも言いますが、おカネはモノではありません。

アリストテレスやアダム・スミスのように「おカネがモノである」と誤解してしまうと、おカネの量には限界があると誤解してしまうのです。

これがいわゆる「貨幣のプール論」ですね。

そう言えば、避雷針を発明したベンジャミン・フランクリンは「1ペニーの節約は、1ペニーの所得である」と言っていました。

即ち、フランクリンによれば「政府が1万円を節約すると、国民にとって1万円の所得になる…」と言うわけです。

なわけ、ないでしょ!

それではGDPの三面等価一致の原則に反するではないか。

真実は全くの逆で、「政府が1万円を支出すると、国民は1万円の所得を得る…」のでございます。

お気づきでしょうか。

フランクリンの言う「1ペニーの節約は、1ペニーの所得である」を地で行っている政党があります。

そうです。

日本維新の会です。

彼ら彼女らの言う「身を切る改革」こそが「政府が1万円を節約すると、国民は1万円の所得を得る…」という、物理的にあり得ないロジックなのです。

要するに、この政党は「GDPとは何か」「三面等価一致の原則とは何か」など真面目に考えたことなどないのでしょう。

どうしてなのか、そんな政党に期待が集まっているほどに今の日本は危機なのでございます。