現行の日本国憲法には「平和」という言葉は何度となく使用されているのですが、不思議と「独立」という言葉はどこにも記されていません。
被占領下に制定された憲法ですから当然といえば当然のことなのですが、ここに現行憲法が占領憲法と言われる所以があります。
なお、独立どころか「国の安全」や「防衛」という言葉すら見当たらない。
ということは、我が国の防衛は日本国憲法に基づいて為されるものではない、ということになります。
しかし、昭和29年に定められた『自衛隊法』の第3条(自衛隊の任務)には、次のようにあります。
「自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」
そして同条項には、この任務の一つとして「国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」が謳われています。
ここで言う「国際連合を中心とした国際平和のための取組」こそが、集団安全保障による集団的措置への参加です。
因みに、多くの日本国民は、よく自存自衛という熟語を使って「自衛権」と「自己保存権」を同等、もしくは自衛権は自存権の一部であると誤解していますが、現在の自衛権は自存権とは関係がなく、むしろ「集団安全保障」の特例として許されるものと理解したほうが正しいかと思われます。
また、「集団安全保障」と言うと、「それは国連安保理が決議したもののことだ…」と頑なに解釈される人も多い。
「安保理決議のない武力行使は、すべて侵略だ…」という意見さえあります。
とはいえ、例えばコソヴォ紛争時のNATOによる空爆も、例えばイラク戦争の際の有志連合軍による攻撃も、それぞれ安保理の武力行使容認決議なしに実行されたものですが、これを侵略戦争と公式に非難する国は少なく、むろん自衛戦争だという国際的な意見もありません。
それに、コソヴォ空爆やイラク攻撃を「侵略だ…」とする国連決議もない以上、これらは完全な形とは言えないながらも、やはり集団安全保障による集団的措置の一部であったと認めるより外はないと思われます。
平和ボケと言われて久しい日本国民ですが、最も重要なことは、自衛権の行使が「権利の法理」に基づくものであるのに対し、集団安全保障は「責務遂行の法理」であることを理解しなければなりません。
さて、こうした集団安全保障を主導しているのが米国ですが、残念ながら米国の外交戦略の誤りが国際社会を地政学的に不安定化させることもしばしばです。
今回もそうですが、「NATOの東方拡大」という米国のリベラル外交戦略がプーチン・ロシアを刺激し、ウクライナ紛争を勃発させました。
というより、「(米国が)勃発させたかった…」とさえ言えるのではないでしょうか。
米国が本気で「NATOの東方拡大」が国際平和にとって重要であると考えているのなら、どうしてロシアをもNATOに加盟させようとしないのでしょうか。
かつてソ連が、米国領土の喉元にあたるキューバに核を配備しようとした際、米国は猛反発をし、一時は核戦争の危機に陥りました。
いわゆるキューバ危機です。
米国としては喉元に匕首を突きつけられた以上、報復対抗するほかなかったわけですが、諜報活動によってウクライナに反ロシア政権をつくり、あまつさえウクライナをはじめ旧東欧諸国をNATOに加盟させロシアに安全保障上の脅威と刺激を与えたのは、キューバ危機の際にソ連がやったことと何がちがうのか。