昭和7(1932)年の今日、武装した陸海軍の青年将校たちが総理官邸に乱入し、首相(犬養毅)を殺害しました。
いわゆる五・一五事件です。
なぜ、この事件は起きたのか?
それを知るためには、むろん当時の時代背景を理解しなければならない。
当時、わが国は英米が仕掛けたブロック経済によって窮地に立たされていました。
なにせ日本ほど、近代産業を成立させるための資源を海外に依存していた国はありませんでした。
それなのに資源を止められたら、産業どころか近代国家を運営できません。
そうしたなか、右翼社会主義に心酔した青年や陸軍青年将校たちの動きが活発化していきました。
同年3月には、三井財閥の団琢磨(だん たくま)が暗殺されています。(血盟団事件)
右翼社会主義とは、いわば尊王左翼のことで、天皇を中心とした共産主義と言ってもいい。
彼らは「腐敗政治の是正と財閥の粛清!」を掲げ、着実にそれを実行に移したわけです。
因みに、右翼社会主義に心酔した彼ら青年将校らは、当時のエリートです。
日本男児の7〜8%しか合格できない旧制中学の中のとびきりの優等生で、しかも頑健な肉体を有し、20歳代前半で少尉や中尉となり200人もの兵隊を預かるほどです。
今風にいえば、20歳代で税務署の所長になる財務官僚みたいなものでしょうか。
ただ、現在の財務官僚と決定的に異なるところがあります。
まさに自信に満ち溢れていた青年将校たちであったものの、その生活の実状はといえば現在の財務官僚と比べようもなく実に安月給でした。
それなのに「大将たちは何人も女中を雇うような豪邸に住んでいる…」「華族、地主、資本家たちの生活も裕福すぎる…」と言うように、彼ら青年将校たちにとってその格差は、実に理不尽極まりないものだったわけです。
それに、青年将校たちの部下であった兵隊たちは貧しい百姓の出身の者が少なくありませんでした。
折しも世界経済は大恐慌下で、わが国の農村は困窮を極めていました。
上流階級の裕福な暮らしを目にすると同時に、農村の娘たちが身売りしているという話を聞いていた彼らは、日本の体制に対する義憤を感じていたのでしょう。
こんな不公平を野放しにする政府は、青年将校たちにとってはまさに「腐敗」そのものでした。
彼らが右翼社会主義に飛びついたのは、ある意味当然の流れだったと思います。
以上のような経緯で彼らは、北一輝らの理論から昭和の社会変革である「昭和維新」を夢想し、腐敗政治の是正と上流階級の粛清を目指さんとしたわけです。
さて、五・一五事件を起こした青年将校たちから、一人も死刑が出ていないことをご存知でしょうか。
全国から助命嘆願の声が寄せられたからです。
そのことは、昨年6月に安倍総理を殺害した山上被告に対し、全国から同情の声が寄せられたのとダブります。
むろん、それで山上被告の罪が軽減されることはあり得ないのですが、五・一五事件は果たしてどうだったのでしょう。
世論の空気が彼らの罪を軽くしてしまったことは否めなかったと思います。
このときの裁きが甘かったがゆえに、この4年後には二・二六事件が起きてしまいます。
この二・二六事件が決定的でした。
以後、政府は常にクーデターを恐れながら、困難な外交交渉(平和交渉)を行わねばなりませんでした。
究極的にいえば、「戦争するか」それとも「クーデターを許すか」という二者択一の選択しかなくなってしまったのです。
いつの時代でも「維新」が叫ばれたときこそ要注意です。
ましてや「保守」を自認するのであれば、抜本的改革を主張することなど決してあってはならない。