本日は5月5日なので、端午の節句について。
因みに5月5日は、五が重なっていることから「重五(ちょうご)の節句」とも呼ばれます。
意外にも、端午の節句を祝日として定めたのは明治政府ではなく江戸幕府です。
当時、武家社会の間では、この日に厄除けの菖蒲のほかに、鎧兜や武者人形などの五月人形を飾って男の子の厄除けと立身出世を願いました。
なるほど「端午の節句」を「重五の節句」というほか、「菖蒲の節句」と呼ぶのはそのためですね。
その後、端午の節句は明治以降に一般庶民にも普及したのだと思われます。
私も子供のときに祖母が五月人形を買ってくれました。
日本において「端午の節句」がはじまったのは奈良時代だと言われています。
当時、お隣の大陸に「楚」という国があり、そこに屈原(くつげん)と呼ばれる人望の厚い政治家がいて、彼の命日が5月5日であったがゆえに、この日が端午の節句となったらしい。
ほか、次のような説もあります。
端午の「端」という字は「はじめ」を意味し、「午」は「午(うし)」を意味します。
旧暦の「牛の月」が5月だったことから、「端午の節句」は5月の最初の午の日だったのですが、「午(ご)」は「五(ご)」に通じることから、やがて「5月5日」となったというもの。
個人的には、「午(ご)が五(ご)に通じる…」というのは後付で、屈原の命日説のほうが信憑性があるように思えます。
なお、端午の節句に「ちまき」を食すようになった由来は次のとおりです。
前述のとおり、屈原は国のために真っすぐに生きた実に立派な人物だったらしいのですが、彼を妬む周囲からの陰謀により国から追放されてしまい、終には川に身を投げ捨てたという。
その屈原の命日が5月5日であり、屈原の死を嘆いた人々が、米を詰めた竹筒を川へ投げて霊を弔いました。
しかしそれでは、川に住む龍に食べられてしまう事から、龍の嫌う葉で米を包み、五色の糸で縛る様になったらしい。
一方、屈原が川に身を投じたとき、屈原が龍に食べられないように彼を慕う住民たちが「ちまき」を川に投げ入れたという説もあります。
横浜の中華街にある萬珍樓では、そのように解説しています。
歴史が古いがゆえに諸説あるのだと思います。
いずれにしても、奈良時代以降の我が国では、男の子の厄除けと立身出世を願って端午の節句を祝ってきたことは紛うことなき事実です。
現在では悪しきポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)により、端午の節句や桃の節句は「男女の別を差別するものだから五月人形や雛人形を飾ってはならぬ…」という人たちがいます。
ポリコレにかかると、その国の歴史や文化など簡単に否定されてしまいます。
実に残念です。