9日間にわたる川崎市議会議員選挙も残すところ今日一日となりました。
最終最後まで、ただただ有権者の皆様に政策と熱意を愚直に訴え続けるのみであります。
さて、選挙戦といえば、各候補者が「自分に投票してもらうことのメリット」を訴えるのが常ですが、選挙戦も終盤になるにしたがって他陣営へのネガティブキャンペーンも徐々に熱を帯びてきます。
たいていの場合、さすがに直接的には言及されず、遠回しに攻撃してくる場合が多い。
例えば、ある川崎市議会議員候補者は毎回のように「私は地元生まれ、地元育ちです…」と繰り返し訴えます。
なるほど三宅隆介は東京生まれ、東京育ちで、大人になってから川崎市に移り住んで川崎市議会議員に立候補し現在に至っています。
そんな「よそ者」の三宅なんかより、「地元生まれ・地元育ちの私のほうが選ばれる正当性がありますよ…」と言いたいらしい。
むろん、民主主義選挙ですから発言は自由であっていい。
ただ、私は候補者として、また一人の人間として、もしも何か批判しなければならないとき、絶対に越えてはならない一線を設けています。
それは、その人がどんなに努力をしようとも絶対に改善することができないことについては、決して批判してはならないことです。
例えば私は今、インフラ投資を怠っている現在の川崎市政を批判していますが、市長がその気になれば財政政策を転換しインフラ投資を行うことは可能です。
あるいは、正しく懲戒権を行使していない今の市長を議会で厳しく批判をしていますが、そのこともまた市長がその気になれば改善することが可能です。
要するに、本人の努力次第でいくらでも改善できる欠点であるのなら批判の対象となり得るのですが、本人の努力ではどうにもならないものを批判することだけはあってはならない。
世の誹謗中傷の類は、どれもその種の批判です。
三宅隆介が今から生まれ育ちを変えることはできませんし、そもそも地元生まれ・地元育ちが議員として何のセールスポイントなのかも怪しい。
かつてイギリスの保守党が凋落したとき、次のような党内改革が行われました。
その改革とは、イギリスの地方議会選挙にあたり、保守党の公認候補者はすべて「生まれ育ちが地元以外の者でなければならない」というものでした。
即ち、地元生まれ・地元育ちには公認は出さぬ…と。
なぜ保守党はこのような規定を設けたのかというと、地元生まれ・地元育ちの者は生まれながらにして親類縁者や同級生、あるいは地元の町内会や商店会など多くの地元支援者に支えられることになります。
そうなると、議員としての資質ではなく人柄だけを評価されることになりがちです。
一方、地元に縁もゆかりもない候補者はゼロからのスタートで、議員としての役目をしっかりと果たしその資質を認めてもらわなければ評価されない。
保守党の狙いはそこにあったわけです。
その後、保守党は復活することになったわけですが、その主因が地方議会議員選挙で「地元生まれ・地元育ちはダメ…」という公認規定にあったのかはわかりません。
いずれにしても、批判は他者にあり、行動は我にありです。