政府が「脅威」という言葉を使うことの意味

政府が「脅威」という言葉を使うことの意味

いつも言うように、防衛力の整備には「基盤的防衛力整備」と、「脅威対抗防衛力整備」の2種類があります。

いざという時、いつでもエキスパンド(拡張)できる基盤を整備し運用するのが「基盤的防衛力」であるのに対し、想定される最悪の全ての脅威に対応できる防衛力を整備しようとするのが「脅威対抗防衛力」です。

因みに、脅威対抗防衛力で整備して失敗した典型例こそが、大東亜戦争時の帝国陸海軍です。

危機管理を専門とする識者たちは「常に最悪の状況を想定し、その状況に対応できる対策と体制を整え準備するもの…」と考えるのが一般的ですが、これを国防に当てはめると、どうしても脅威対抗論による防衛力整備に陥ってしまいます。

脅威対抗論はあくまでも部隊運用の一つとして理解すべきだと考えます。

さて、去る3月8日、中国の習近平国家主席は、日本の国会に相当する「全人代」で軍の代表らに対し、「国際的な競争相手に対して優位に立つためテクノロジー面の自立促進を加速するべきだ」と主張し、軍事力の強化を呼び掛けました。

経済全般と防衛産業の協調改善や技術革新を通じ、国防費を大幅に増やすことでそれを実現するとしています。

そうしたなか日本国内には、いわゆる「中国脅威論」が益々もって高まっています。

我が国の『国家安全保障戦略』で初めて「脅威」という言葉が使われたのは2013年のことですが、その時の「脅威」というのは、ロシアとか中国とか北朝鮮とかいう特定国の名前ではなく、①大量破壊兵器等の拡散の脅威、②国際テロの脅威という、要するに特定国を指さず質的脅威だけを挙げ、その範囲で脅威対抗論を完成しようとしたわけです。

この国家安全保障戦略は2014年に米国が示した「4年ごとの戦略見直し(QDR)」の真似だとも言われていましたが、そのQDRでも「脅威」という言葉は使われず、あくまでも「課題」という範囲の表現を使うにとどめられています。

昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻によって、初めてNATO(北大西洋条約機構)はロシアを「脅威」と表現したわけですが、こうした国家の公文書に「脅威」という言葉を初めて使った国が日本であったということを我々日本人は知っておくべきです。

NATOは言うまでもなく、軍事組織ですので脅威対抗論に徹するのは当然かもしれませんが、日本という国民国家は軍事安全保障のみならず経済安全保障や文化安全保障を含めた総合安全保障の下で外交手段を駆使すべき総合国家であることを踏まえれば、世界に先んじて特定国を「脅威」と表現する態度には違和感を覚えます。

有事と平時の境界を意図的に曖昧にするハイブリッド戦の時代では、こうした軽率な表現はかえって敵を利することになります。

そのことに対する備えはできているのでしょうか。

それに、『平成30年大綱』と新しく策定された『安保戦略』においては、北朝鮮についてだけは「明白な脅威」、あるいは「一層重大かつ差し迫った脅威」という表現をするようになりはしたものの、中国とロシアについてはあくまでも「懸念」という言葉にとどめていました。

これは、あるテレビ番組で小野寺元防衛大臣が「北朝鮮についてはもう、外交の余地が残っていないので、ああいう表現になった。中国とロシアについてはまだ外交の余地があるということらしい」と説明していました。

とはいえ、『防衛大綱』をみますと、対中国が第一目標、対ロシアが第二目標、対北朝鮮は第三目標かと思わせるような記述があることから、昨年末に改定された安保三文書との平仄が合わないように思えます。

防衛部門の政策責任者たちの多くは「現在の日本にとっての最悪の事態とは中国・ロシア・北朝鮮の3国からの同時・複合的侵攻である」と考えているらしいのですが、もしもこの想定のもとに脅威対抗論により防衛力を整備しようとすれば、防衛費をGDP比10%にしても足りません。

即ち、自衛隊の予算規模をたとえ5〜6倍にしたところで、中・ロ・北3国の複合侵攻に日本が独力で対処することは事実上不可能なのでございます。

だからこそ、集団安全保障という考え方で地域の平和を保持していくほかなく、日本はその役割を積極的に担うべきです。

そして集団安全保障への参加にもっとも適した防衛力こそ、基盤的防衛力です。

むろん、集団安保を主導する米国が既に頼りにならなくなったという懸念があるのも事実ですし、果たして現在の米国が有する戦力で東アジアの武力紛争にどこまで対応できるのか、また関与できるかは残念ながら曖昧であり不明です。

よって、相対的に落ち込んだ米国の軍事力を相対的に補うかたちで、我が国の基盤的防衛力を強化していく必要があるのだと考えます。