今日は、建国記念の日です。
4月には統一地方選挙が予定されていますが、なぜ2月11日が建国の日であるのか?、を説明できる候補者は果たして何人いるだろうか。
『日本書紀』によれば、「辛酉年春正月、庚辰朔」が紀元節(初代天皇であられる神武天皇が即位した日)とのことです。
辛酉年春正月、庚辰朔…
辛酉(かのととり)の年の春正月、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)を西暦に置き換えると、紀元前660年2月11日となることから(異説もあり)、この日が「建国記念の日」とされました。
神武天皇を中心とする建国創業の歴史をしのびつつ、日本国民として生まれてきたことに改めて感謝したいと思います。
さて、紀元節を法律的に定めたのは1873(明治6)年のことですが、1948(昭和23)年にGHQ(占領軍)の意向で紀元節は廃止され、1966(昭和41)年に「建国記念の日」が制定されました。
一方、日の丸が国旗として法制化されたのは意外にも最近で、1999(平成11)年8月のことです。
法制化されたのは最近ですが、むろん「日の丸」は長い歴史の中から自然発生的に生まれてきたものです。
「日の丸」の最も古い起源は、現在の国旗とは若干異なるのですが、すでに『続日本紀』に見ることができます。
そこには、文武天皇が701(大宝元)年の元旦『朝賀の儀』に臨んだ際、「月像」との対で「日像」を並べた記録があります。
それは、金塗りの丸板に三本足のカラスをあしらったもので、これを「日の丸」の起源とするのが通説です。
ここで言うカラスとは、むろん八咫烏のことで、神武天皇東征のとき熊野から大和に入る険路の先導役を努めた鳥です。
日本サッカー協会の旗に、この八咫烏が足でボールを抑えている図が描かれているのは有名な話です。
あるいは『愚管抄』には、源義朝が保元の乱のときに「日出したりける紅の扇」と記されていますし、後の源平合戦の際には、源氏が白地に赤、平氏が赤字に白の「日の丸」の旗を互いに掲げて戦っています。
戦国時代には、武将たちはそれぞれの家紋をあしらった旗を揚げていましたが、それとは別に「日の丸」の旗を掲げています。
豊臣秀吉は2回にわたる朝鮮出兵の際に「日の丸」を用いていますが、おそらくこれが対外的に用いた最初の事例だろうと思われます。
戦国武将たちがこぞって「日の丸」を用いたのは、よく理解できます。
古来よりわが国では天照大御神を太陽神としてお祀りしています。
よって武将たちは、太陽神を象徴する「日の丸」を使用することで、いかに自分たちが天皇に忠誠を誓っているか、いかに自分たちが天皇から授権された正規軍であるのかを世間に知らしめたかったからだと思います。
要するに「日の丸」の旗そのものが、錦の御旗だったわけです。
秀吉の朝鮮出兵以後は、支倉常長、山田長政、高田屋嘉兵衛らが搭乗した船、あるいは咸臨丸などが「日の丸」を日本の国旗として掲げ、幕末にペリーが来航した際には、島津斉彬、徳川斉昭、安倍正弘らが「日の丸」を正式に日本の国旗として用いています。
明治以降は、祝日に「日の丸」の旗を掲揚することが習慣となりましたが、戦後はGHQによる占領政策が功を奏してか、祝日に「日の丸」を掲揚する家庭も企業も少なくなっていきました。
今や、少なくなった、というよりほぼ皆無です。