昭和の悲劇

昭和の悲劇

今から34年前、昭和64年の今日、昭和天皇が崩御されました。

本日は宮中にて『昭和天皇祭』が、靖國神社では『昭和天皇武蔵野稜遥拝式』がそれぞれに挙行されていることと存じます。

さて、昭和はまさに激動の時代でした。

あの時代のことを知れば知るほどに、当時の日本がおかれた状況がいかに切実なものであったのかがわかり、ご宸襟のお苦しみは私などには計り知れない。

例えば、満洲事変をめぐり、陛下は時の首相である田中義一に事の経過について奏上(説明)をお求めになられたとのことです

そのとき、残念ながら田中首相の説明はどうにも要領を得なかったらしい。

たまりかねた陛下は「田中首相の言うことはちっともわからぬ。再び田中首相から話を聞くのはいやだ…」と仰せになったという。

そのことを知った田中首相は辞表を提出し、田中内閣は総辞職することになったのですが、この一件が重臣たちのあいだで問題になりました。

むろん重臣たちは忠義の人たちですから陛下に文句をつけたわけではないのですが、内大臣の牧野伸顕や元老の西園寺公望といった重臣たちは、天皇陛下は立憲君主なのだから政治的な意見を述べるべきではないと言いたかったらしい。

『昭和天皇独白録』(文春文庫)には、そのときのことが詳しく記されています。

「こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう云い方をした。それで田中は辞表を出し、田中内閣は総辞職をした。(中略)この事件あって以来、私は内閣の奏上する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」

我が国においては有史以来、今持ってなお天皇陛下は元首ですが、明治憲法以降は立憲君主となられました。

明治時代は、明治憲法をつくった人たちが常に元老として君臨していましたので、元老会議の意見は即ち明治天皇の意見である、というように考えられていました。

そして、その元老院が首相を選んでいましたので、首相の意見はすなわち元老の意見であり、ひいては陛下のご意見でもあったわけです

つまり、首相の背後には元老、元老の背後には陛下がおられたことで、首相の力はある意味でオールマイティだったわけです。

だからこそ、陸軍も海軍も首相の言うことを聞いていたわけです。

ところがその後、時代とともに明治の元勲たちが次々と亡くなられ、昭和になると生き残りは西園寺公望侯爵ただ一人になってしまい元老の力が衰えてしまったのです。

結局、力と権威のある首相が出にくくなってしまい、軍部も首相の言うことを聞かなくなったのでございます。

天皇の意見 = 元老の意見 = 首相の意見

…という恒等式が成り立たなくなってしまったということです。

「田中の言うことはちっともわからぬ」と、ご自身の意見を述べられたのち、昭和天皇のご意見が日本の政治を動かしたことは二度しかありません。

一つは二・二六事件のとき、もう一つは終戦のときです。

陛下は、昭和史の折々の出来事について様々なご意見をお持ちになられ、またご不満もあられたようです。

そのことを考えますと、もしも田中首相の一件のあのとき、重臣たちが昭和天皇のご発言を抑え過ぎなければ、その後の昭和史の悲劇はいくつも避けられたのではないでしょうか。

私は、そのように確信します。