広島県は非政府組織(NGO)と協力し、『核兵器廃絶国際キャンペーン』を2019年から毎年実施しているらしい。
ことし11月には、世界の若者を集めて核廃絶に取り組むリーダーを育てるアカデミーを開くという。
私が議員となるはるか以前の昭和57年、川崎市議会は『核兵器廃絶平和都市宣言』なる不思議な宣言を全会一致で議決しています。
さて、この地球上から「核」が廃絶されたとき、本当に世界平和は訪れるのでしょうか?
誤解を恐れず、そして批判を恐れずに申し上げますが、ほぼ不可能です。
なぜなら在来型兵器(通常兵器)が残るからです。
通常兵器は、その使用者に「相手を絶滅させても、自分は生き残れる」という可能性を与えます。
即ち、通常兵器は核兵器に比べて「軍事的相互脆弱性」がないのでございます。
だとすれば、各国が再び国家間決戦をはじめるに至って、第一次、第二次大戦と同じ轍を踏むことになります。
このように言うと「だったら、通常兵器も無くせばいいじゃないか…」という声が返ってきます。
それ即ち、歴史から学ぼうとしない人たち言ですね。
例えば、1990年から3年間にわたり勃発したルワンダ戦争(内戦)では100万人以上の人々が亡くなったと伝えられています。
そのうち少なくとも10万人以上は鉈(なた)や棍棒(こんぼう)で殺戮されています。
さらには放火も重要な手段だったらしい。
つまり、彼らの生活用具が武器だったわけです。
はたして、それら生活用具のすべてを廃絶することなどできるのでしょうか。
相対的に退潮傾向にあるとはいえ、今なお世界の秩序をリードをする米国国内において小火器の保持規制さえできない現状からして、世界の全ての武器を廃絶することは極めて非現実的な夢想にすぎない。
20世紀前半(1945年まで)、第一次世界大戦と第二次世界大戦という戦争があり、その戦争で5〜6000万人の人が亡くなりました。
それ以降、ソ連が崩壊する1991年までの約45年間は冷戦時代で、米ソの国家間決戦はなかったものの、朝鮮戦争、ベトナム戦争に代表される代理戦、局地戦、制限戦が行われ、結局2000万人強の戦死者をだしました。(毛沢東による文革による犠牲者は除く)
とはいえ、20世紀前半の世界人口は約25億人で後半の人口は約60億人なので、戦死者の比率は前半に比べ後半は約6分の1に減少したことになります。
即ち、戦死者数の少ないことが平和だとすれば、前半より後半の方がはるかに平和になったということです。
1991年以降の約25年間に各種民族紛争が続きましたが、あいかわらず人口の多い国同士の国家間決戦はなく、戦死者総数は前2者(20世紀前半、後半)に比べても明らかに減っています。
このような変化をもたらした素因は「核兵器」と「超大国」の存在にあります。
「共に潰れるような戦争はできない」と各国が悟ったのは「核兵器」のためであり、その悟りを更に強固にしてきたのは全てを一連託生(相互依存)と締め付ける「超大国」の存在だったのです。
国家間決戦の最後のストッパーとしての「核兵器」が世界に残存し、それを保有する限られた「超大国」が、むろん完璧(ベスト)ではないものの、世界にベターな平和をもたらしています。
それらを廃絶し、いったい何をしたいのか。
そもそも核兵器を廃絶したところで、核兵器を製造する技術と知識を廃絶することは絶対的に不可能です。