「自衛がすべて」「必要最小限がすべて」からの脱却を!

「自衛がすべて」「必要最小限がすべて」からの脱却を!

浜田防衛相が訪米しています。

さきほど(15日未明)ワシントンで、米国のオースティン国防長官と会談をされたようです。

我が国は年末にかけて、①国家安全保障戦略、②防衛計画の大綱、③中期防、の防衛戦略3文書を改定する予定になっていますので、浜田防衛相はオースティン国防長官にその検討状況を説明されたものと思います。

報道によると、会談冒頭から浜田防衛相は相手領域内でミサイル発射を阻止する「反撃能力(敵基地攻撃能力)」に言及された模様です。

おそらくは、新たな戦略文書に「反撃能力」を盛り込むことを検討している旨を真っ先にオースティン国防長官に伝えたかったのだと推察します。

日本国民の代表である「国会」よりも先に、米国様にご報告しなければならいところがいかにも“戦後日本”です。

さて、やがては国会でも議論になると思いますが、一部野党からは「そもそも敵基地攻撃は専守防衛に反する…」という反対意見がでるのは必至です。

加えて、もしも反撃能力(敵基地攻撃能力)をもつとなれば「その規模をどうするのか?」が一つの争点になるのではないでしょうか。

例によって「必要最小限」か!

ご承知のとおり、我が国では歴代の内閣法制局長官が「武力行使というものはすべてわが国防衛のための必要最小限をこえるものであってはならない」と国会答弁しています。

むろん、これが政府見解になっているわけですが、しかしながらこの答弁は「武力行使は自衛の場合以外にはあり得ない」という明らかな誤解が前提になっています。

そもそも自己を守るための実力行使は、現状の保持と回復に制限され、その実力行使の諸手段は、その原因となった侵害に対して必要にしてかつ比例したものでなければならないはずです。

ゆえに、自己を守るための実力行使の範囲は、ふつう「相手の侵害に応じて必要な限度内でなければならない」と表現されるべきです。

「必要最小限」と「必要な限度内」とでは、その意味がまったく異なるのです。

にもかかわらず、内閣法制局が「必要最小限」という言葉を使っている理由は、1837年に起きたキャロライン事件以降、国際法上確率された自衛の3要件(①急迫不正の侵害があること、②他に手段がないこと、③必要限度の実力行使にとどまるべきこと)を援用したものと推察します。

ご承知のとおり、もともと憲法9条は「自衛権を認めているのか、認めていないのか」が争点でした。

ところが、先に自衛隊が整備されてしまったので「少なくとも個別的自衛権はある」と認めざるを得なくなり、そのときに「必要最小限度だけどね…」という制約がつきました。

このことから、我が国では「自衛がすべて」「必要最小限がすべて」という認識が独り歩きしていってしまったのです。

「必要最小限」という言葉が量を表すものなのか、それがどういう量なのかは一度も明らかにされたことがありません。

前述のとおり、自衛における反撃の限度は侵害の程度に応じるものです。

例えば、通常兵力1個師団で攻撃された場合の反撃の限度と、核兵器で攻撃された場合の反撃の限度は明らかに異なるはずです。

要するにこれは、その時の状況、その時の相手に応じた部隊運用上の限度なのであって、一定量としては表現できないものなのです。

なのに、日本に許された自衛・反撃の限度は総じて「必要最小限」といういかにも一定量であるかのように誤解が流布しています。

しかもそれが防衛力整備とか、集団安全保障とか、集団的自衛権行使の可否等というまったく関係のない問題にまで影響を及ぼしているから厄介です。

そもそも「必要最小限(necessary minimum)」などという言葉自体が国際的に通用していないのをご存知でしょうか。

国際安全保障の世界でこんな意味不明な言葉を使用しているのは我が国だけなのでございます。

このような曖昧で意味のない言葉によって議論するのは直ちに止めてほしい。

なお、国連加盟国である我が国は、国連憲章が負っている義務(集団安全保障の軍事的措置=武力行使)を誠実に果たさねばならない以上、「自衛がすべて」ではないのです。