和魂洋才の国

和魂洋才の国

ときおり私は『論語』を読むようにしていますが、読むごとに、論語は日本の精神文化そのものであることを痛感します。

断っておかねばなりませんが、論語は中国思想などではありません。

なぜなら論語は、今の中国とも、中国人とも何ら関係がないからです。

論語は普遍的な人倫の道を述べたものであり、これを人間の普遍的価値として受け止め、考察を深め、実践し、日常生活に実現したのは日本だけです。

その意味で、論語は日本独特の日本の思想だと思います。

このように言うと「論語はシナ大陸に生まれたもので、孔子はシナ人であり、いまも孔子の故郷には孔を名乗る人たちがおり、孔子は敬われ続けている」と、反論する中国人がいるかもしれません。

しかしながら孔子は、いま中国で漢民族と称されている中国人とは人種的にも異なる北方系の人で、単純にいまの中国人と結びつけてしまうのは大きな誤解です。

では、孔子は何人か?

と問われれば、周人となりましょうか。

たしかに孔子の子孫を名乗り、孔の姓を称している人たちがいますが、ただ孔の姓を称しているだけで学問的に証明されているわけではありません。

それに孔子を敬っている中国人がいたとしても、実際に論語を研究し、それを人生の指針として、毎日の生活の中で実践している人などいないはずで、ただただ神として拝んでいるだけでしょう。

一方、儒教の国と言われる(!?)朝鮮半島はどうでしょうか。

確かに宗教的な儀礼の作法、血族のしきたりなどに儒教の影響が色濃く残っている点があるのでしょうが、それは宗教的な形式として人々を拘束してはいても日常生活を生きていく上での指針や教えとはなっていないはずです。

誤解を恐れずに言えば、シナ大陸でも朝鮮半島でも、論語は儒教という宗教の経典ではありましたが、その教えが一人ひとりの生き方の上に、国の在り方に実行されることはなかったと思います。

前述したとおり、それを儒学として受け止め、教えを深め、磨きをかけて実行したのは日本だけだと思うのです。

それを可能にした理由の一つに、漢文をそのまま日本語として読む乎古止点(ヲコト点)の発明があったと思います。

これによって日本人はシナ語を耳にしたことがなくとも、古代シナ語をまったく知らなくとも、論語の原点を日本語として読むことができたのです。

これが論語を日本の思想にした最大の理由でしょう。

論語は発生の地ではまったく活かされず、海を越えた我が国において「日本の思想」になったところが面白い。

いま発生の地である中国は論語とはまったく無関係なのですから。

考えてみれば仏教も同じです。

仏教は大乗仏教でも小乗仏教でも発祥の地インドの外に伝わることによってそれぞれの発展を遂げました。

シナ大陸、朝鮮半島を経由して日本にきた仏教は、中継地で見る影もなく廃れ、日本に入って顕教、密教、さらには禅宗、念仏宗など多彩な発展をみせています。

いまでは発祥の地であるインドやインド人は、仏教とは無関係で、完全に日本の宗教になっているのは周知のとおりです。

あるいは、ものづくりでも同じです。

自動車を発明したのはヨーロッパ人ですが、エコで安全で性能の高い自動車を造らせたら日本に敵う国はありません。

日本は和魂洋才に長けた国なのです。

ところが、いつの時代でも必ずと言っていいほどに、和魂を失い、漢魂漢才、洋魂洋才を是とする学者や政治家が現れ、国を衰退させようとするものです。

今の日本がそうであるように。