不確実性に立ち向かうために

不確実性に立ち向かうために

私ども人間は、物理的現実として一人で生きていくことはできない。

もともとが群れて暮らす猿が進化した生物であるから当然といえば当然の話なのですが、不確実性の塊である人間社会は集団行動のなかでしか身の安全を確保することができないようにできています。

現に、たった一人で自然災害に立ち向かうこともできないし、たった一人で生活インフラを構築することもできないし、たった一人で他国からの軍事侵攻に対処することはできないのでございます。

すべての日本国民が「青信号なら進み」「赤信号なら止まる」という集団行動をとっているからこそ、私たちは安心して街なかを移動することができるわけです。

今回のような新型コロナ感染においてもそうですが、ひとたび疫病が蔓延すれば集団で立ち向かわねば埒があかない。

こうした集団行動のことを「制度」と言います。

急病を患ったとき、すぐに救急車が来てくれるのも、医療機関が受け入れてくれるのも、行政が医療保険を支給してくれるのも、すべて集団行動としての「制度」が機能しているからにほかなりません。

新型コロナに感染して重症化した際、救急車も来ない、保健所も機能しない、医療機関もみつからないのは制度(集団行動)が機能していない証左です。

残念ながら我が国政治は、こうした制度(集団行動)の機能低下を促す政策を、なんと20年以上にも渡って進めてきたのでございます。

それが新自由主義に基づく「構造改革」です。

構造改革とは、小さな政府、緊縮財政、規制緩和による市場経済化のことです。

行政の役割を小さくし緊縮財政を行ったことで、災害、疫病、経済危機が発生した際に行政は国民を救うことができないでいます。

なにより緊縮財政は行政の役割をさらに縮小させ、デフレ経済を助長し国民を貧困化させました。

主流派経済学は「市場経済こそが適正な需要と供給のバランスをもたらす」と言っていたのに…

もしも市場経済が本当に機能するのであれば、どんなに新型コロナ感染が拡大しても「保健所が足らない」「受け入れ医療機関が足らない」という状態にはならなかったはずです。

むろん、なろうはずがないのですが…

とはいえ、私は多くの日本国民が新自由主義に基づく「構造改革」を支持してきたものと認識しています。

新型コロナという未曾有の危機が到来したことで、さすがに多くの日本国民は制度(集団行動)が機能することの重要性に気づかされたはずです。

繰り返します。

人間なら誰でも不確実な未来に向かって生きていかなければならない宿命を負っています。

不確実性から逃れて生きていける人など一人もいません。

だからこそ制度の上で、また集団行動の中で私たち人間は生きています。

なお、ここでいう制度や集団行動は、例えば行政であり、例えば生活インフラや防災インフラであり、例えば貨幣、医療、法律、慣習のことでもあります。

つまり、究極的には国家そのものです。

自然災害等で家屋や家族を失ってしまわれた方々も、あるいは新型コロナで酷い目に合った方々も、脆弱な国家(国力)では自分たちを守ることはできないことを痛感されたにちがいない。

国家を強靭化するに最も必要なのが「余力(redundancy)」です。

余力なくして、危機に際し国民を救うことはできないのでございます。