知識人という大衆の代表

知識人という大衆の代表

新型コロナの入院患者の3割以上が、診断から1年後も倦怠感や呼吸困難などの何らかの後遺症を患っていることを、厚労省の研究チームが調査により明らかにしました。

症状を訴える患者は徐々に減っているものの、とりわけ41歳から64歳までを中心に睡眠障害や筋力低下などの後遺症も残るらしい。

厚労省は、このことを医療現場向けに作成している手引に明記するなどして、診断や治療の適切化につなげたいとしています。

それにつけても、新型コロナが発生した当初、「新型コロナなんて通常の風邪とかわらない」とか「行動制限は全体主義だ」とか言っていた人たちがいますが、たんなる「普通の風邪」で1年後も呼吸困難などの症状を訴えることはないはずです。

あるいは、この世界的パンデミックに対し、日本を除く各国の指導者たちは、いわゆる「戦争のメタファ」をつかって国民を説得し、国をあげて対策に乗り出しました。

たんなる「普通の風邪」で戦争のメタファを使うことなどあり得ないでしょうし、たんなる「普通の風邪」でなかったからこそ、国民の自由を制限してでも国民の生命を守らなければならなかったわけです。

しかしながら、国家の役割を重視しない新自由主義者の類は「経済優先…」と言いながら、なぜか早期の段階で新型コロナの危険性を軽視する言動に終始しました。

特に残念だったのは、「保守」を自称する人たちの中にも、その種の人たちに同調してデマを流したり、国民の分断を招く行為に加担したりする人たちが多かったことです。

結局、彼らはあくまでも「自称保守」であって「保守」ではなかった、ということなのでしょう。

一方、新型コロナへの対応について判断を間違えた人々を後知恵で批判する輩もいました。

だれだって判断を誤ることはあります。

なのに、今回のように次々と新しい事実が判明しても自分の判断の間違いを認めることができず、自己正当化をはかろうとする人たちがいるのは残念です。

因みに自称国際政治学者の三浦某みたいに、最初は新型コロナを軽視していたくせに、あとになって「国は高を括っていたのではないか…」と政府批判する人もいます。

あるいは「(新型コロナ対策について)政府の対応には一貫性がなく、朝令暮改が多い…」と批判する自称知識人もいましたが、ウイルスは変異し、社会情勢も変わってくるのですから、その対応や判断が都度変わるのは当然のことではないでしょうか。

何が言いたいのかというと、テレビやラジオや新聞や週刊誌には、あまたの自称知識人が登場します。

残念ながら大衆社会はこの種の自称知識人が垂れ流すデマ情報に流されやすい。

但し断って起きますが、ここでいう「大衆」とは、「大衆居酒屋」や「大衆食堂」などで使われる概念ではありません。

偉大なる哲学者であるオルテガは、「大衆」を次のように定義しています。

「大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は“全ての人”と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出している全ての人のことである」

なるほど要するに、自ら考え選択する重責から逃れ、常に多数派に同調して少数派にマウントをとりたがる人たちのことですね。

知識人に洗脳されず、自らの頭で考え判断し行動することは、常に孤独であり、とても難儀なことです。

その孤独さ、面倒さを伴う重責に耐えられない人たちによって大衆は形成されます。

今の日本において大衆を扇動するのは、テレビに出てくる学者や専門家、あるいはワイドショーで知識人ぶるコメンテーターたちです。

この構造こそが、日本を亡国へと導いています。

新型コロナ問題しかり、財政破綻論しかり、公務員叩きしかり、地球温暖化問題しかり、SDGsしかり…