ロシア軍を撃退した国

ロシア軍を撃退した国

時代は1900年、当時の中国は満洲族王朝である大清帝国(以下、清国)の版図で、シナ人は被支配民族でした。

ご承知のとおり清国は1840年のアヘン戦争以来、列強の侵略を受けていました。

そうしたなか、悪名高き西太后に唆された宗教的秘密結社『義和団』が、扶清滅洋(清を扶け、外国を滅ぼす)のスローガンを掲げて北京にある諸外国の公使館区域を襲撃することになりました。

すると清王朝は義和団を義民とみなし、よせばいいのに北京に公使館を置いていた欧米列国に対して宣戦を布告します。

ぶったまげた欧米列国は、北京に最も距離の近い日本国政府に出兵を要請してきましたが、日本政府としては国際社会から「あらぬ疑念」を招かれぬよう慎重な態度をとって出兵を拒んでいました。

いつの時代でも、他国に軍隊を送り込むと「あらぬ疑念」が持たれるものです。

しかしながら英国政府からの再三にわたる強い要請があったこともあって、日本軍は列国の軍隊とともに出兵することになります。

結果、8ヶ国連合軍(総勢約2万人で半分ちかくが日本軍だった)が公使館区域の外交官や居留民を救出することに成功しました。

これが、世にいう「義和団事件(北清事変)」です。

義和団事件の際、欧米列国の軍隊は義和団を掃討するついでに略奪を行っています。

そんな中、日本軍だけが略奪を行わず、その軍規の厳正さは各国の賞賛を浴びています。

当時、英国のスタンダード紙の社説にも「日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に価するものであり、かつ他の国の追随を許さない」と書かれています。

それとは正反対に最も酷かったのはロシア軍です。

事変のどさくさにまぎれ、例えば「江東六十四屯虐殺事件」と呼ばれる大虐殺を行っています。

因みに彼の国は満洲(現在の中国東北部)占領の口実を得るために公使館区域の籠城者が殲滅させることを望み、日本に対する欧米の救援要請を妨害しています。

事変後、北京域内管理で日本地区が最も治安が安定したのは有名で、反対に最も酷かったのはやはりロシア地区です。

北京市長は英国公使に、ロシア担当地区を日本軍が受け持つように要請したほどです。

ロシアの悪辣さはこれに留まらない。

北清事変をきっかけに満洲を制圧したロシアは、事変平定後も満洲に居座り続け撤兵しませんでした。

日英米などの抗議で満洲からの撤兵を約束したものの、期限が来ても撤兵せず、逆に兵力を増強します。

なお、鴨緑江河口の竜岩浦を軍事占領して韓国と「竜岩浦租借契約」を締結し、そこに鉄壁なロシア要塞を築き、地名も「ポート・ニコラス」と改称してしまいました。

地政学的に考えて、満洲にロシア軍が居座りつづけ、竜岩浦に鉄壁なロシア要塞をつくられることは日本国にとって安全保障上の脅威です。

ゆえに日本政府はロシア政府と交渉をはじめます。

日本側の要請は実にシンプルで「満洲をお互いの緩衝地帯にしましょう。だから日本が満洲に兵を送ることもしませんので、ロシアも速やかに満洲から撤兵してほしい」というものでした。

しかしながらロシアからの回答はありませんでした。

日本はこれに対して3週間も待ったのですが、それでも回答はなく、依然として満洲ではロシア軍が展開し、日に日に兵力が増強されていきます。

そもそも彼らに交渉する気などさらさらなく、その領土的野心は火を見るよりも明らかでした。

日本としては何としてもロシアの南下政策を食い止めなければならない。

そしてやむを得ず、ついにロシアとの国交を断絶し戦争を決意することになります。

日露戦争のはじまりです。

戦う能力と意志がなければ、安全は保障されず主権を獲得することはできません。

あの時代の日本国には、それがあったのです。