No!と言った日本人(後編)

No!と言った日本人(後編)

幕臣・新見正興を使節団長(正使)とする万延遣米使節団の目的は、第一に日米修好通商条約の批准書の交換であり、第二に米国という近代国家を直接目にし情報を収集してくることにありました。

その一方、使節団ナンバー3(目付役)として同行していた小栗には、時の大老(幕府の首相)井伊直弼から重要な「密命」が課せられていました。

その密命とは、日本が不利な状況に置かれていた為替レートの問題解決にむけた方策を講じてくることです。

とはいえ、こうした密命があることを米国側にさとられるわけにもいかず、あるいはそのような大任を肩書と家柄だけは立派で中身のない者に任せるわけにもいかなかったでしょうから、頭の切れる小栗に密かに託した井伊大老の気持ちがよくわかります。

さて、フィラデルフィアの造幣局に到着した小栗は、造幣局見学の一環として「日米通貨の分析比較試験」を所望しました。

当初、造幣局側は「彼ら(使節団)は米国がもつ分析比較能力を見学したいのであろう…」と、軽い気持ちで応じていたのですが、「一部の破片でなく、丸ごと溶かして分析してほしい」と迫った小栗の真の目的を直ぐに察知しました。

小栗の目的は「分析方法の見学」にあるのではなく「日米の貨幣の相対的品位の確認」にあったわけです。

米国側は「それには時間がかかる…」と言ってお茶を濁そうとしましたが、「いや、何時間でも待つ!」という小栗の気迫に圧倒されてしぶしぶ応じることになりました。

翌日さっそく、小栗ら使節団三使の立ち会いのもとに、日本の小判と米国ドル金貨の分析比較試験が開始されました。

朝の9時に造幣局入りした小栗らは昼食も弁当を届けさせ、その場を離れず根気強く分析実検に立ち会いました。

そのときのことを、当時のニューヨークタイムズが次のように記事にしています。

「分析試験のあいだ、遣米使節の人たちは昼食にホテルに戻ることさえ断って、その場でご飯と魚で昼食を済ませた。彼らの一貫した忍耐強さは、鋭さ、知性、集中力と相まって、現場にいた人々に感銘を与えた」

因みに小栗以外の2人、即ち正使の新見も、副使の村垣も、目付にすぎない小栗がどうしてそこまで執拗に分析比較試験にこだわるのか理解できなかったでしょう。

なにせ彼らには井伊大老の密命は知らされていませんでしたので、「小栗の興味本位に付き合わされてたまらん…」ぐらいに思っていたに違いない。

結局、実験が終了して小栗たちがホテルに戻ったのは夕方6時ごろだったようです。

その翌日の夕方、実験の分析結果をもって造幣局の役人5〜6人がホテルにやってきて三使と対談することになりました。

分析の結果、金の含有量はほぼ同じ。

ただし、日本の小判(金貨)には米国のドル金貨に比べて銀が多く含まれていることが判明しています。

しかしそれは小判の方が何倍も価値があるということではなく、一割未満の差の高品位ということで、小判とドル金貨はほぼ同等もしくは小判の方がやや価値が高い、ということを実験によって正確に米国側に認めさせることに成功しました。

これを日米双方が確認し次に論を進めることができれば、「日本と米国の金貨は同等にもかかわらず、メキシコドル(銀貨)を日本に持ち込んだ外国人たちが日本の銀貨(一分銀)に換え、さらに銀貨を小判金貨に換えると、小判をアメリカ人たちが三分の一の値段で入手できているのはおかしいではないか!」という日本の主張が成立しました。

しかし残念ながら、そうはなりませんでした。

正使の新見や副使の村垣が「これ以上の交渉は幕府から命じられていない」と言って、小栗による米国との通貨交渉を止めさせてしまいました。

きっと、「小栗よ、俺達にはそんなミッションは課せられていないんだから、この辺で止めとこうよ」みたいな感じだったのでしょう。

とくに勘定組頭の森田清行が強硬に反対したようです。

「幕府に断りもなく、あるいは通貨交換価値の変更につながる交渉を直接的に米国政府と行ってしまったら日本にいるハリスの面目を潰すことになる」というのが森田の主張だったようです。

このことからも小栗に託された「密命」は幕閣の総意ではなく、井伊大老個人のものであったことが伺えます。

その後、徳川幕府は、1枚あたりの金の含有量を従来の三分の一にした「万延小判」を発行することでとりあえずの難を凌いでいます。

おそらくこの時以来、小栗はかつて荻原重秀が言っていた「貨幣は国家が造るところ、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」の意味を正しく理解していったのではないでしょうか。

のちに横須賀造船所を建設する際、勘定奉行(財務大臣)として小栗は、財源確保の手段として含有量を落とした「万延二分銀」や「幕府紙幣(兌換紙幣)」を発行しています。

このときの幕府紙幣の名目はあくまでも兌換紙幣でしたが、ご承知のとおり既に幕府の財政事情は厳しく御金蔵の金貨は枯渇していたようですから、実質的には不換紙幣だったといっていい。

フィラデルフィアでの小栗の交渉は、実は米国側からも喝采されました。

主張すべきことは堂々と主張し、確実に交渉をすすめる小栗のフェアな態度が賞賛されたのです。

ニューヨーク・ヘラルド(1835年から1924年まで発行されていた米国の日刊新聞)などは、当時の米国で人気の高かったブラック判事になぞらえて次のように記事を書いています。

「彼は明らかにシャープな男である。ワシントンで『ブラック判事』とニックネームがついたのも最もなことだ」

初めて米国に「No!」と言った日本人は、米国から親しみと敬意の念を抱かれた初めての日本人だったかもしれない。