2月1日、作家としても、政治家としても数々のご功績を遺された石原慎太郎さんがお亡くなりになられました。
石原慎太郎さんと言えば、日米貿易摩擦が凄まじかった1980年代、ソニー会長だった盛田昭夫さんと共同執筆した『「No」と言える日本』というエッセイが実にセンセーショナルでした。
ちょうどあの時分は私が政治に興味をもちはじめたころで、あの頃はなんとなく「政治はあかぬけぬオジサンたちが行うもの」というイメージを勝手に抱いていた私ですが、石原慎太郎さんだけは別格でした。
「親米保守」などという意味不明な言葉が当然のように通用していたあの頃(今でもそうですが…)、石原慎太郎さんは属米主義からの脱却を唱えておられた数少ない政治家のお一人であられました。
『「No」と言える日本』がベストセラーとなったこと自体が、「米国にNo!」と言える政治家が当時の日本にいなかったことの証です。
さて、外交交渉で米国に堂々と「No!」を突きつけた、はじめての日本人をご存知でしょうか?
幕末、勘定奉行(財務大臣)や陸軍奉行(陸軍大臣)などを歴任した小栗忠順(おぐり ただまさ)です。
現代人には小栗上野介(おぐり こうずけのすけ)と言ったほうが馴染み深いかもしれませんが、上野介は名前ではなく官職名です。
小栗が米国に対し「No!」を突きつけた案件は、為替交渉です。
むろん当時は、金貨や銀貨こそが貨幣とされていた時代です。(今でもそうですが…)
実は幕末、小判と外国通貨との交換で非常に不利な状況に置かれていました。
即ち、ドルと小判の差が米国に有利に働いていたのです。
当時の国際的な決済通貨はメキシコドル(銀貨)だったのですが、1メキシコドルを日本で交換すると一分銀3個になりました。
一方、日本国内では一分銀4個で小判1枚(小判は金貨)に交換できます。
ところが、国外に持ち出された小判1枚をメキシコドルに交換すると4メキシコドルになりました。
日本の小判は金の含有率が高かったのでそれだけの価値があったわけです。
つまり、こうです。
①日本へ来た外国人はメキシコドル(銀貨)4個を日本で一分銀貨12個に変える
②そして、一分銀貨12個を小判3枚に変える
③その小判3枚を上海や香港に持ち出してメキシコドル(銀貨)12枚に変える
要するに、日本で一分銀貨を買い、それを小判に変えて海外に持っていくと、メキシコ銀貨が3倍に増えたわけです。
日本で為替取引をするだけで金融資産を3倍に増やすことができたので、日本に来た外国人たちはこぞって一分銀に変え、さらに小判に変え海外に持ち出しました。
このようにして外国人たちは、小判のマネーゲームで存分に儲けたのです。
これこそが、幕末に日本の小判が海外に流出した理由です。
因みに、小判(金貨)の流出により相対的に銀貨の価値が下落したことで、銀本位で取引をしていた関西商人たちは大損することになりました。
幕末、倒幕派の志士たちを経済的に支援したのは、幕府の為替政策に不満をもった関西商人だったとも言われています。
この問題を解決するために小栗が登場するわけです。
ときちょうど、幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するための使節団を米国に派遣しなければならないときでした。
大老(幕府の首相)だった井伊直弼は、小栗の経済に対する能力に期待し、遣米使節団の目付(監視監督役)に任命します。
井伊大老は小栗に「いま起きている小判の流出を食い止める方策を米国で講じてきてほしい」と命じます。
使節団の長ではなく、目付役の小栗に外交案件の解決を命じたところに、井伊大老の小栗への期待度が伺えます。
さて、一行は、1860(万延元)年1月に米国政府が提供した巡洋艦ポーハタン号に乗り込み、咸臨丸の護衛の下、37日かけて太平洋を横断し、ハワイ経由でサンフランシスコに到着しました。
小栗は航海中、ポーハタン号の船員からいろいろな通貨を交換して収集し、ハワイに上陸したときもハワイの貨幣価値を調査しています。
サンフランシスコに到着した一行はパナマ地峡を鉄道で横断した後にキューバに到着。
再び船でワシントンに向かいます。
サンフランシスコ、ワシントンでも財務担当官やカス国務長官らと交渉を重ね、フィラデルフィアに着くとさっそく造幣局を訪ねました。
そこはアメリカ合衆国随一の造幣局だけあって、金貨や銀貨を鋳造するだけではなく金銀の鑑定や原料となる鉱石の分析、また世界各国の通貨もたくさん集めて資料にしているほどでした。
資料のなかには日本の小判や一分銀もあったという。
小栗はそれを見学したのち、大胆にも造幣局との交渉の口火を切ります。
急な提案に米国側も驚いたにちがいない。
結果、日本側が望む日米通貨の分析比較試験を翌日に行うことになりました。
一夜を過ごし、小栗は再び造幣局に出向きます。
さっそく両国通貨の分析実検をすることとなり、両国の金貨の一部が削り取られ試金秤にかけられたそのとき、小栗から異議(No!)が出されます。
「この程度の小片で分析実検したのではダメだ。小判一枚、ドル金貨1個を丸ごと分析してほしい」と言ったのです。
小栗の主張は、たんに通貨の分析方法を知ることにあるのではなく、小判金貨とドル金貨をそれぞれ丸ごと溶かして分析してほしいというものでした。
米国側は慌てます。
小栗たち日本使節団の目的が米国の試金方法を見学することではなく、両国の貨幣の根本的品位を確かめようとするものだったからです。
その慌て具合には「(有色人種の日本人だから)彼はそれほど高い分析能力をもっていないだろう」と思い込んでいた米国側の偏見がその前提にあったものと拝察します。
もう一つ米国側がビビったのは、ドル金貨には銀は僅かしか含まれておらず、銅などの不純物が多いことを日本側に知られたくなかったからです。
米国(造幣局)側は、小栗の言うとおりに実検すると時間がかかることを理由に拒否します。
すかさず小栗は「No!」と言う。
「どんなに時間がかかってもいい」と言って、あくまでも食い下がる小栗の根気に負け、ついに米国側はしぶしぶ同意することになりました。
いよいよ両国の通貨が丸ごと溶かされていきます。
(明日につづく…)