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議会報告 02 政治・経済

竹島の領有権問題
でるところにでられない事情が知りたい
2019/08/26    

我が国の海は広い。

日本の国土面積(領土面積)は37.8平方km(世界第62位)で、世界全体の僅か「0.28%」にすぎません。

一方、領海とEEZ(排他的経済水域)を合わせた面積は約447平方kmあり、世界第6位となります。

なお、海の深さを含む領海とEEZの体積ともなると世界第4位にランキングされます。

国連海洋法条約は、いずれの国も干潮時の海岸線から12海里(約22km)までの海を領海として認め、さらに海岸線から200海里(約370km)までをEEZとし、自由に魚を獲ったり海底の資源を優先的に利用したりすることができます。

むろんEEZ内では、外国は勝手に漁業や資源開発をすることはできません。

これら海の面積や体積などの数字を見ただけでも、我が国が「海洋国家」であることが解かります。

さて、江戸時代初期の1618年(二代将軍・秀忠公のご治世)、鳥取藩の村川家・大谷家の両家は幕府から鬱陵島という日本海の島を拝領し、鳥取藩の保護のもとに業業を営んでいました。

鬱陵島とは、鳥取の港から出港すると「竹島」よりも更に92km程度も先に位置する島です。

要するに「竹島」は鬱陵島あたりで漁をする際の中継地点でした。

ところがその後、徳川幕府と李氏朝鮮の間で鬱陵島の漁業権をを巡って紛争が発生します。

日本の漁師たちがあまりにも見事なまでな漁をしていたものだから、よほどに羨ましくなったのでしょう。

「あそこは俺たちの島だ」と言って領有権を主張しはじめたわけです。

外交交渉の結果、幕府は日本船籍による鬱陵島への渡航を禁止します。

我が国は江戸時代においても「お人好し外交」だったようです。

但しそのとき、幕府は竹島への渡航を禁止していません。

幕府が渡航禁止を命じたのは、あくまでも鬱陵島のみです。

時代は下って、日本は明治のご一新により近代国家としての歩みをはじめます。

そして日露戦争に勝利したその年(1905年)、日本政府は島根県の上申に基づいて、閣議において竹島を正式に「竹島」と命名し、島根県所管とすることを決定しました。

つまり「竹島」の主権は日本国が有している旨を、政府として内外に宣言したわけです。

むろん当時、それに異を唱える国は一つもなく、国際社会からも非難の声は全く上がりませんでした。

ところが、日本が大東亜戦争に負け、苛酷な占領統治を受けて主権を失っているドサクサに紛れ、当時の韓国政府(李承晩政権)は突如として公海上に「線」(李承晩ライン)を引き、なんと「竹島」をその内側に収め同島の領有権を主張しはじめたのです。

それは、1952年1月8日のことでした。

つまり、日本が主権を回復するおよそ3ヶ月前のことです。

前年(1951年)の9月8日には、サンフランシスコ講和条約が調印されています。

そして1952年の4月28日には同講和条約が発効し、晴れて我が国は占領統治から開放され、独立国として再スタートすることになっていました。

だからこそ李承晩は講和条約が発効するまえに「竹島」を強奪し、島を実行支配しておくことで、日韓国交正常化交渉の際の領有権問題を有利に運ぼうとしたのでしょう。

翌年(1953年)の2月には、李承晩ライン内に出漁した日本漁船が韓国に拿捕され、漁労長が射殺されるという事件まで起きています。

以後、200隻以上の漁船と3,000名以上の漁民が拿捕という名の強制連行をされています。

1954年9月、日本政府は韓国政府に竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、翌10月、韓国側はこれを拒否しました。

1962年3月にも日本は韓国に再び提案したものの、それも拒否。

ご承知のとおり、1965年には、日韓基本条約が締結されました。

その折の交換文書で、両国間で解決できない場合は「調停によって解決を図る」との取り決めがなされました。

その「調停」とは、まさに国際司法裁判所での審理を意味し、公正な第三者の判断を仰ごうとしたものです。

同裁判所で審理するためには両国の同意が必要なのですが、韓国側が頑なに拒否し続けているのは周知のとおりです。

「でるところにでられない」なにか余程の事情でもあるのでしょうか?