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議会報告 02 政治・経済

正しい昭和史を知ろう #10(最終章)
兵器の恐ろしさを語り継ぐだけでは「平和」を創出することはできない
2019/08/22    

東條内閣が成立した最大の理由は、なによりも東條さんが平和(米国との交渉による戦争回避)を求める陛下の御心に厳格に応えることのできる人物だった、という一言に尽きます。

即ち、陸軍主戦派の暴発を抑えつつ、米国との平和交渉を継続できる総理は「東條しかいない」という。

であるからこそ、東條内閣成立の折、9月6日の御前会議での決定(10月上旬までに対米交渉解決の目処がつかない場合は対米宣戦に踏み切る)を破棄し、新たな国策を策定するように、という陛下の御諚(お言葉)が伝えらたわけです。

いわゆる「白紙還元の御諚」です。

なお、外務大臣には平和主義者と言われた東郷茂徳が起用されたことからも、東條内閣が対米平和交渉内閣であったことは紛れもありません。

さて、その東郷外務大臣が米国に提示したのが、いわゆる甲案・乙案です。

甲案は、シナの門戸開放、シナ・仏印からの撤兵について米国に譲歩した案です。

これだけで、日本としてはかなりの妥協でした。

一方、乙案は、甲案不成立の場合、日本の南部仏印撤兵と米国の輸出解禁によって戦争を回避するという暫定策でした。

甲案は、11月7日に米国ハル国務長官に提出されましたが、関心を示すこともなく不成功に終わります。

そもそも米国には、はなっから交渉を成立させようという気などなかったのですから当然です。

そして、11月20日、日本政府が乙案を提出するも黙殺されます。

くどいようですが、すでに大西洋憲章で参戦を決意し戦争準備に入っていた米国は、日本政府からいかなる提案が投げかけられようとも一切の興味など無かったのです。

黙殺されたまま時は過ぎます。

その間、米国はルーズベルト大統領と軍関係者とで、どうすれば“日本に先制攻撃をさせる”ことができるかを検討していたようです。

そして、11月26日、運命の「ハル・ノート」が日本側に手渡されることになりますが、その内容は「蒋介石政権を承認し、シナ大陸及び仏印から無条件で全面撤廃すること」というものでした。

大陸には、日清、日露の戦役で甚大なる犠牲をはらって獲得した正当な権益があります。

国際協定に基づく仏印への進駐は、近代国家を運営するために必要な天然資源を確保しなければならない、という切実な理由もありました。

そられをすべて放棄して「大陸と仏印から直ちに無条件撤兵せよ!」と言っているわけです。

要するに、日本に対し「日清戦争以前、つまり江戸時代に戻りなさい」と言っている等しく、戦わずして降伏せよと言われたようなものです。

即ち、最後通牒です。

ハル・ノートを提出したハル国務長官は、スチムソン陸軍長官に「私はもう交渉から手を引いたから、問題は陸軍と海軍に手に移った」と述べ、つまりは国務長官が軍部当局に戦争準備に入るように示唆していたことから、米国側にもハル・ノートが最後通帳だったという認識があったようです。

最後通牒を受け取った日本政府は、12月1日の御前会議で開戦を決定することとなり、12月8日、ついに対米覚書(宣戦布告)を手交しました。

石油のあるうちに戦局を有利に運び、どこかの段階で和平交渉を成立させることで事態を打開するほかはない、という判断だったのでしょう。

このとき、お粗末にも現地の外務省日本大使館に不手際があり、宣戦布告の手交が遅れてしまったことで、真珠湾攻撃が“卑怯なる奇襲攻撃”とレッテル貼りされてしまうことになります。

開戦ののち、およそ半年間は日本軍の優勢で推移しますが、翌年6月5日〜7日のミッドウェー海戦での惨めな敗北により戦局は一気に悪化、あとは坂を転げ落ちるように敗戦へと向かっていくことになりました。

結果、我が国土は焦土と化し、300万人にもおよぶ日本国民の尊い命が奪われ、かつ国としても主権を失ってしまうという、まさに最悪の結果に至ったのは周知のとおりです。

そして、昭和20(1945)年8月14日、ポツダム宣言を受け容れ、9月2日には東京湾上で降伏文書が調印され、そこから連合国による苛酷な占領政策がはじまったのです。

対日戦に勝利した米国はインディアンのごとく日本人の絶滅を図ろうとしましたが、ポツダム宣言もあり、別のやり方を考えたわけです。

それが占領下による「東京裁判」と「検閲」と「公職追放」です。

これらを徹底することで「大東亜戦争が日本の侵略戦争であった」ことにして歴史(昭和史)の真実を消し去ろうと考えたのです。

事実、その目論見どおり、我が国の昭和史は物の見事に塗り替えられてしまいました。(現在に至ってもなお…)

その塗り替えられた昭和史を少しでも掘り起こすべく、10回にわたるシリーズでこのブログを書きました。

ただ兵器の恐ろしさを語り継ぐだけでは、真に歴史から学ぶことはできず、ひいてはリアリズムに基づく「平和」と「独立」を維持することはできないと考えたからです。