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議会報告 02 政治・経済

正しい昭和史を知ろう #9
東條内閣は平和交渉内閣として発足した
2019/08/21    

明治維新以降の日本の対外および対内政策の本質は、自分の国を独立国家として保持していきたいという切なるものでありました。

幕末、米国をはじめ列強各国と徳川将軍によって結ばれし条約は、列強各国の治外法権を許し、我が国に関税自主権が存しなかった点において、著しく我が国の主権を犯すものでした。

当時、軍事的にも経済的にも小国であった日本としては、「開国」を決意して帝国主義を前提とする国際社会に参加した以上、それら外交上の不条理をそれこそ無条件で受け入れざるを得なかったのです。

その後、我が先人たちの涙ぐましい努力と辛酸を極める犠牲によって日清、日露の戦役を勝利しました。

日清戦争に勝利したことで、まずは治外法権問題を解決し、次いで日露戦争に勝利したことで関税自主権を勝ち取って、我が国は近代国家としての主権を徐々に構築していったのです。

なにも好き好んで近代国家をつくったわけではありません。

我が国の鎖国を解き、強引に近代国家の扉を開かせたのは米国です。

マッカーサーが後に認めたように、日本には絹産業以外には固有の天然資源はほとんどありませんでした。

綿も羊毛も石油も鈴もゴムもボーキサイトも、その他、近代国家を運営していくために必要な資源は悉く輸入しなければなりませんでした。

当時、それらすべての資源はアジアの海域に存在しており、日本は自由貿易を通じそれらの資源を輸入することで近代国家を運営することができるようになっていたのです。

ところが米国は、それら一切の資源を止めました。

まさに…「これらの原料供給が断たれたら、日本国内で1,000万人から1,200万人もの失業者がでていたことでしょう」(昭和26年5月、米国上院でのマッカーサー証言)

それでも日本は「戦争」に訴えることなく、あくまでも外交交渉による事態の打開をギリギリまで模索していた史実を、今を生きる全ての日本国民は知るべきだと思います。

さて、ABCD包囲網によって全ての資源供給を止められたときの内閣は、第三次近衛内閣でした。

第三次近衛内閣というのは、昭和16(1941)年7月18日に、米国との交渉を何とか成立させるために、内政干渉ともいうべき米国の暗黙の要求を受け容れて(松岡外務大臣を馘首にして)までして発足した内閣です。

当時の日本政府はそこまでするほどに、なんとしても米国との交渉を話し合いで解決したかったのです。

ところが、第三次近衛内閣は米国との交渉を続けたものの、交渉に応じる気のない米国は何かと難癖をつけては日米交渉の打ち切りを匂わせていました。

そうしたなか、この年の9月6日、事態打開にむけた御前会議(陛下が参加される重要な会議)が開かれます。

ここで「帝国国策遂行要項」が決定します。

その主たる内容は…
……
① 10月上旬までを目処として、日米交渉の最後の妥結に努める。こらがため我が国の最小限の要求事項ならびに我が国の約託し得る限度を定めて極力外交によってその貫徹を図ること。(日に日に石油が枯渇しているため)
……
② 10月下旬を目処として、自存自衛を完うするため対米英戦を辞せざる決意をもって戦争準備を完成しておくこと。(話し合いの背景としての戦争準備)
……
③ 外交交渉により予定期日に至るも要求貫徹の目処なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する。(あくまでも外交交渉が優先する)

ポイントは、次のとおりです。

★ 石油が枯渇してしまうと戦争すらできなくなり、丸腰で米国と交渉しなければならず、足元をみられながら交渉することなる。

★ だからこそ、石油の残量をみながら交渉妥結の最終期限を区切る必要があった。

この御前会議の際、昭和天皇は明治天皇の御製をお読みになられました。

…四方(よも)の海 みな同胞(はらから)と思ふ世になど 波風の立ち騒ぐらむ…

陛下は「自分はこの明治天皇の平和愛好の御心を実現したいと思っている」と仰せになったわけです。

その後も事態は妥結の様相をみないまま、ついに第三次近衛内閣が総辞職し、10月18日に東條内閣が成立します。

このとき、陸軍大臣であった東條さんが総理になったことで、戦後に入ると「この時点で日本は戦争を決意したのではないのか?」という言われ方をしますが、さにあらず。

当時、陛下や政府が最も恐れていたのは226事件のごとき反乱軍の蹶起です。

(当時の陸軍内には、これだけの経済攻撃を受けている以上、すでに米国から宣戦を布告されたも同然であり、時間が過ぎれば過ぎるほどに国力が減退するので直ちに開戦すべきだ、という空気がありました)

即ち、こうした軍の暴発を抑えつつ、米国との平和交渉を継続できる総理は「東條しかいない」という大命降下だったと言っていい。

東條さんご自身も、さらなる対米平和交渉を継続するには9月6日の御前会議で決定した「10月下旬までを目処に交渉打ち切り」を白紙撤回しなければならず、それを白紙撤回できる内閣にするには「私なんかよりも皇族(東久邇宮)の総理のほうがいいのでないか…」と発言されています。

実際、東條さんは「9月6日の決定を白紙撤回してよい」という御諚を排した上で組閣を受諾したのです。

そして改めて国の進むべき方針を協議した上で「対米交渉要領案」を東條内閣として決定したのです。

このことからも、当時の日本政府があくまでも平和交渉の成立を求めていたことが伺えます。

明日につづく…