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議会報告 02 政治・経済

正しい昭和史を知ろう #8
平和を求めた日本、戦争を求めた米国
2019/08/20    

昨日のブログの補足ですが…

もしかすると戦後教育を受けし世代の多くは、かつてインドネシアがオランダ領(オランダの植民地)であったことを知らないのかもしれません。

オランダ領インドネシアのことを当時の日本は「蘭印」(オランダ領東印度支那の略)と呼んでいました。

因みに、フランスの植民地だったベトナム・ラオス・カンボジアのことを仏印(フランス領東印度支那の略)と呼びます。

なお同様に、フィリピンは米国、インド・ビルマ・マレー半島・シンガポール・香港は英国の植民地でした。

英米蘭がシナ大陸で日本軍と戦っている蒋介石軍を支援するための物資は、これらの地域から援蒋ルートを通じて送られていました。

よって日本としては、シナ事変を早期に終結させるためには、なんとしても英米蘭による援蒋ルートを切断する必要がありました。

それが日本軍の北部仏印への進駐目的でした。

例えば幕末の戊辰戦争のとき、北海道(蝦夷地)に陣取って明治新政府軍に抵抗した榎本武揚軍を、もしも英米露が裏で軍事物資を支援していたのらなら、明治新政府軍は簡単に戊辰戦争を終結させることはできなかったでしょう。

その援助ルートを叩くのは必然です。

但し、「進駐」といっても、日本だけの一存で突如として進駐したわけでありません。

日本政府とフランス政府とが正式に外交交渉を行い、「シナ事変解決までの臨時措置であること」を明文化するなど、日仏相互に確認しあった『松岡・アンリ協定』という国際協定に基づいての進駐だったことを付しておきます。

ところが翌月、米国は北部仏印への進駐の制裁措置として日本への屑鉄・屑鋼の輸出を禁止したのです。

それでもシナ事変を終息させたい日本政府は、昭和15(1940)年11月、南京に樹立された汪兆銘政権を正式に承認しました。(日華基本条約)

相手方に、まともな政府が存在しなければ、事変を終結させるための交渉そのものが成立しなかったからです。

これに対抗して英米は、重慶の蒋介石政権に借款を供与し援助しています。

どこまでも日本を追い詰めたい英米…

北部仏印に進駐した日本軍が次に恐れたのは、サイゴン(南部仏印)を英米に抑えれれてしまうことです。

もしも英米が先にサイゴンを抑えてしまうと、北部仏印に進駐している日本軍は、シナと南部仏印の両方から挟み撃ちにされてしまうことになります。

英米側は「そんな気などなかった」と言うかもしれませんが、当時の情勢からすればその可能性を否定することはできず、日本軍として想定すべき範囲だったと思います。

さて、日米通商航海条約を一方的に破棄されて以後、自存自衛のため蘭印からの物資、特に石油買付が必要になり交渉を続けてきたのですが、10ヶ月にも及ぶ階段は成功せず、昭和16(1941)年6月をもって交渉は打ち切られました。

当時、日本の石油輸入の92%は、米国と蘭印で占められていたことは、これまで述べてきたとおりです。

交渉が打ち切られただけでなく、7月には英米蘭が相次いで日本資産を凍結したのです。

いよいよ追い込まれた日本は、前述の軍事上の理由(サイゴンを先に英米に抑えられてしまうこと)や、南方の資源確保の観点もあり、フランス政府との間で合意が成立している『共同防衛議定書』に基づいて南部仏印に進駐したわけです。

昨日のブログでも申し上げましたが、日本軍が南部仏印への進駐を開始したのは昭和16(1941)年7月28日です。

「その制裁措置として米国は日本への石油を止めた」ということにされていますが、その前から米国の石油禁輸は決定されていましたので、「制裁措置として石油を全面禁輸した」というのは後付の理由です。

ここに、米国(A)、英国(B)、シナ(C)、オランダ(D)による、いわゆるABCD包囲網が完成し、これによって我が国は生存に必要な物資が手に入らないようになりました。

自存自衛のために必要不可欠な物資を悉く止められたからといって、日本はすぐに「戦争」に訴えたわけではありません。

石油が完全に止められた8月1日から、真珠湾に攻撃した12月8日までの約3ヶ月間、あくまでも我が国は「平和」を求め、粘り強い外交交渉によって事態を打開すべく痛ましい努力を重ねています。

近年、明らかになったことですが、昭和16(1941)9月、米国空軍がシナ基地より日本本土を空襲するという参謀部の案に当時のルーズベルト大統領が署名していたのです。

この計画はヨーロッパ大陸に飛行機を廻さなければならない緊急事態のため中止になったといいます。

シナ事変を長引かせるべく蒋介石軍を軍事的に支援するなど、「戦争」を求めていたのは日本ではなく、むしろ米国だったことは明らかです。

米国は、昭和16(1941)年5月までに330億ドル以上にわたる軍備拡張を行っています。

例えば、アラスカや太平洋にける米国属領(グアム、フィリピンを含む)、そしてマニラ、シンガポール間にいたる島々に、まるで日本を包囲するかのように、汎米航空露及び爆撃機が発着できる51ヶ所の飛行場を整備しています。

その前年には、米国はアジアにいた米国婦女子の引き上げを勧告しています。

さらに極東向けの旅券発効を禁止し、名古屋にあった領事館も閉鎖しました。

これらは明らかに戦争が迫っている兆候、そして米国による開戦の決意を示すものといっていい。

日本は、こうした脅威のなかで経済制裁を受け続けていたのです。

いよいよ近衛内閣が行き詰まったとき、陸軍の一部軍人による226事件のごとき暴発を抑えつつ、対米平和交渉を継続できる内閣が求められました。

そこで成立したのが、東條内閣です。

明日につづく…