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議会報告 02 政治・経済

正しい昭和史を知ろう #7
南部仏印への進駐は侵略などではない
2019/08/19    

依然として、解決をみないシナ事変…

日本軍はなんとか各地で蒋介石軍を制圧し停戦にもちこむも講和は成立せず、一向に事変は収束しませんでした。

そもそも日本政府にも日本軍にも、シナ事変という消耗戦が長期化することで得られる利益など何ひとつありませんでした。

ところが、蒋介石には事変を終息させる気などなく、その蒋介石を裏で支援していたのが米英です。

例えば米国は、義勇軍の名目で「フライング・タイガー」と称する空軍200人を蒋介石軍に派遣しています。

昨日のブログのとおり、米国は実質的には既に対日参戦していたのです。

さて、日米通商航海条約が一方的に破棄されて以降、日本は自存自衛のために蘭印(オランダ領インドシナ)からの物資、とりわけ石油の買付が必要となって英米蘭と交渉を続けていましたが、10ヶ月に及ぶ交渉も結局は成功せずに昭和16(1941)年6月をもって交渉は打ち切られました。

それどころか、翌月には米英蘭が相次いで日本資産を凍結しました。

追い込まれた日本は資源を確保するため、7月28日、南部仏印(フランス領ベトナム南部)に進駐しました。

そして8月、ついに米国は日本への「石油禁輸」を決定し、英国にもオランダにも対日石油禁輸を働きかけ、ここに米国・英国・シナ・オランダの「ABCD包囲網」が構築されるに至ったわけです。

「対日石油禁輸は日本の南部仏印進駐への制裁措置だった」と、私たちは戦後教育で教わってきましたが、こんにち明らかになっていることは、日本への「石油禁輸」は南部仏印進駐の前に、既に決定されていたということです。

もしも進駐を4〜5日程度遅らせていれば順序が逆さになり、米国による石油禁輸措置のほうが先に行われていたことでしょう。

たまたま進駐のほうが先になってしまったがために「禁輸は対抗措置だった」と話をすり替えられてしまったのです。

しかも後に東京裁判では「南部仏印進駐=侵略行為」とされてしまったわけですが、冗談も休み休み言ってほしい。

もともと日本の南部仏印への進駐は、この年の1月25日に決められた「対仏印泰施策要項」の延長線上、即ちフランス政府との外交交渉の結果として進駐したものであり、また7月21日にフランス政府との間で合意されていた「共同防衛議定書」という国際条約に基づくものでもありました。

つまりは、フランス(ヴィシー政権)と日本政府との間で武力行使によらず話し合いで合意に達し、その上で平和裏に進駐したものです。

けっして領土的野心による進駐ではなかったことは、日本国民として知っておくべき史実かと思います。

明日につづく…