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今日は8月13日です。

76年前の8月13日といえば、その前日に米国を中心とする連合国側(米英中)から提案された「降伏条件」への対応について、受け入れるべきか否かの大激論が政府内で交わされたまさに緊迫した局面にありました。

いきさつはこうです。

まず、7月26日、日本政府に対して降伏を求める『ポツダム宣言』が連合国側から提示されました。

その降伏条件は主として、①日本の占領、②日本軍の武装解除、③戦争犯罪人の処罰等々でした。

これが為されなければ、則ち、これ以外の日本国の選択は「日本国を迅速かつ完全に破壊させる」というものでした。

翌7月27日の朝、政府(鈴木貫太郎内閣)はこれを受諾すべきかどうかを検討するも、しばらくは『ポツダム宣言』に対する意思表示をせず、和平交渉の仲介を打診していたソ連からの解答を待つことにします。

驚くことに当時の日本政府は、なんとあのソ連に和平交渉の仲介を期待していたのですから絶望的です。

当時の日本政府のインテリジェンス能力の低さが確認できるところです。

しかもこの決定を翌日(7月28日)の新聞が「政府はポツダム宣言を“黙殺”」と報道したことが災いしました。

この「黙殺」を、連合国側は「ignore(無視)」や「reject(拒絶)」と解釈したようです。

つまり世界が、日本政府は『ポツダム宣言』を無視し拒絶し、はなから降伏する意思などないと受け取ってしまったわけです。

しかし政府の決定は、本来は「No Comment(意思表示しない)」だったはずです。

いつの時代でも、メディアが国益を損なうことが多いようです。

その後、ソ連からの返事など来るわけもなく、8月6日には広島に原爆が投下され、およそ14万人の命が奪われます。

さらには8月8日には、頼みのソ連が「日ソ不可侵条約」を破棄して日本に宣戦布告してきました。

和平交渉の仲介を期待していたソ連から宣戦布告されたのですから惨めなものです。

その翌日の8月9日には満州国にソ連軍がなだれ込み、ここでようやく和平交渉の道が絶たれたと判断した政府は最高戦争指導会議を開き『ポツダム宣言』を受諾するための条件について協議しました。

戦争終結派の外務大臣は「国体護持」だけを条件にして受諾すべきだと主張し、主戦派の陸軍大臣は「国体護持は当然のことだから、そのほかにも複数の条件を足すべきだ」と主張したことで議論は紛糾しました。

その会議中の11時2分、今度は長崎に原爆が投下されたのです。

事態は一刻の猶予もない。

しかしそれでも意見はまとまらず、決定は臨時閣議にもちこまれることになりました。

臨時閣議を開くも一向に結論に至らず、ついに鈴木貫太郎総理は最後の手段にでます。

夜の9時、臨時閣議をいったん休憩にした鈴木貫太郎総理は陛下のもとへと向かい、陛下ご臨席による御前会議の開催を願い出ました。

陛下もそれを承諾。

8月10日の午前0時3分、御前における最高戦争指導会議が開かれました。

それでもなお議論は依然として紛糾し、平行線をたどりました。

そして午前2時過ぎ、それまで黙っていた鈴木貫太郎総理が立ち上がり口を開きます。

「議論を尽くしましたが決定に至らず、しかも事態は一刻の猶予も許さない。誠に異例で畏れ多いことながら、ご聖断を拝して会議の結論としたい」と。

なぜ異例なのかは言うまでもなく、大日本帝国憲法下の天皇陛下は現在と同様に立憲君主です。

とりわけ明治憲法下においては、陛下は内閣の決定を裁可するのみのお立場で、内閣が陛下に対して政治判断を求めることはあり得ないからです。

陸軍主戦派によるクーデターを抑えつつ、終戦に導くために鈴木総理としてできることはこの手段しかなかったのだろうと思います。

沈黙を守り議論を聴いておられた陛下は、縷縷お言葉を述べられた上で外務省案に賛成されました。

このご聖断によって、国体護持という条件だけをつけて『ポツダム宣言』を受諾することが決定され、その決定が連合国側に伝えられました。

連合国側からその解答書(降伏文書案)が届いたのが、8月12日のことです。

その連合国側の文面の一部に対し、再び日本政府内に議論が巻き起こります。

文面の一部とは次のとおりです。

「天皇及び日本国政府の国家を統治する権限は、連合国最高司令官の subject to に置かるるものとする」

この subject to を何と解釈するかで意見が別れたわけです。

戦争終結に導きたい外務省はこれを「制限の下に置かれる」と和訳し、戦争継続を主張する陸軍はこれを「隷属する」と和訳しました。

研究社の『新英和大辞典 第6版』をみますと、たしかに subject to は「支配を受ける」「服従する」「従属する」とあります。

陸軍は「これでは国体の維持は貫けない」とし、本土決戦を主張したわけです。

こうして再び政府内の意見が激しく対立し、鈴木内閣は空中分解の寸前まで追い込まれます。

それでも総理自身は沈黙を貫きます。

たしかにこのとき鈴木貫太郎総理が、どちらかの意見をもって他方の意見を封殺するようなことになれば、鈴木内閣は瞬時にして瓦解してしまい、速やかに終戦に至ることなどできなかったことでしょう。

その結論が出たのは、8月14日の夜のことです。

ゆえに76年前の今日(8月13日)、我が国がどのような状況に追い込まれていたのかを想像することができます。