財政破綻論と国民国家の崩壊

財政破綻論と国民国家の崩壊

岸田内閣の経済対策は規模で50兆円を超えるものの、補正予算で発行する新規国債は建設国債をふくめて22.1兆円にすぎません。

このような中途半端で腰の引けた経済対策及び補正予算になってしまうのは、どうしてもPB(基礎的財政収支)の黒字化目標を破棄できず、なによりも「財政破綻論」の呪縛から逃れられないからです。

しかしながら、①政府が自国通貨建てで国債を発行し、②変動為替相場制を維持できるほどの国内供給能力を維持している我が国においては、政府が破綻(債務不履行)する可能性はゼロ%です。

にもかかわらず、在りもしない「財政破綻論」は一向に払拭されない。

財政破綻論の歴史は古い。

なんと、我が国における「財政破綻論」のはじまりは、大平内閣からです。

遡ること、私が8歳のとき(1979年)に行われた衆議院解散総選挙で、時の総理であった大平正芳さんが「私が国民の皆様に増税(売上税の導入)をお願いする最後の男であります」と演説されています。

私は未だにその映像を覚えています。

そのころからネオリベラリズム(新自由主義)が台頭し、中曽根内閣は英国のサッチャー、米国のレーガンに倣って民営化路線を進めます。

その後、1985年のプラザ合意で円高が進行しつつも日本企業の徹底した合理化によって輸出は減らず、内需拡大のための金融緩和により緩和マネーが土地や株に流れてバブル景気が発生します。

やがて、1991年にバブル経済が崩壊。

1995年には、村山内閣の武村正義蔵相が国会で「我が国の財政は事実上、破綻していまーす」と言って、いわゆる「財政危機宣言」をしました。

とはいえ、当時の国債残高は240兆円程度です。

今や、その4倍にまで国債残高は膨れ上がりましたが、ご承知のとおり金利もインフレ率もゼロ%で一向に破綻の気配などありません。

にもかかわらず、この「財政破綻論」は未だ払拭されない。

されないどころか、財政破綻論そのものが日本を破綻させようとさえしています。

まず、財政破綻論により「政府は国民のためにおカネを使うことができない」という虚偽情報が国民世論に浸透し蔓延しています。

政府は国民を救えないから「全ては自己責任である」という国家の機能を否定する論調が正当化されています。

例え災害や疫病などの非常事態が発生しても「政府にはおカネがないのだから、すべての国民を救うことはできない」というレトリックがまかり通り国民が選別されていくことになります。

よく「本当に困っている人を…」と言うけれど、政治行政において「本当に困っている人」を定義付けすることは難しい。

ゆえに、本当に困っているのにもかかわらず、どうしても選別から漏れてしまう国民がでてしまうのです。

するとどうなるか?

国民という同胞意識が崩れ、ナショナリズム(国民主義)が破壊されていくことになります。

即ち、ここで言う同胞意識とは「困ったときはお互い様」という意識のことであり、国民主義とは「日本国民として同じ共同体に属しているという一体感」のことを意味します。

国民主義が破壊されると民主制を維持することも不可能になります。

ここでは詳しく述べませんが、実は民主制というものは国民国家という基盤の上で成立しています。

要するに国民主義が破壊されると民主制が成立しなくなり、やがて異なる政体へと変わり国民国家が崩壊するに至ります。

財政破綻論 → 緊縮財政 → 国民の選別 → 国民主義の破壊 → 国民国家と民主制の崩壊

日本は、財政が破綻して滅びるのではなく、財政破綻論によって滅びようとしています。