20年前に発生した米国での911同時多発テロをきっかけにして、いわゆる「アフガニスタン紛争」がはじまりましたが、ご承知のとおり今年8月末、アフガニスタンから駐留米軍が完全撤退したことによって紛争は終結したことになりました。
今日は9月11日ですので、あらためて国家の安全保障について考えてみたいと思います。
国際政治学者であるアーノルド・ウォルファーズは、安全保障を「獲得した価値に対する脅威の不在」と定義したました。
なるほど、ここで言う価値とはその国家の国民の生命や財産、あるいは国家がもつ固有の歴史、伝統、文化、領土、主権、名誉など様々でしょう。
こうした価値を「脅威」から守ることこそが安全保障である、とウォルファーズは言っています。
さて、脅威と言うと、通常は北朝鮮や中国やアルカイダなど特定の国家や団体を指す人が多いようですが、現代では世界各国ともそうした表現はとりません。
では、どういう表現がとられているのでしょうか?
それは、1に「大量破壊兵器の拡散」であり、2に「国際テロ(非対称脅威)の撹乱」です。
この二つはもともと、2010年の米国QDR(米国国防総省の4年ごとの国防計画の見直し)で記述された概念です。
皮肉にも、その翌年(2001年)に「911国際テロ」が米国を襲い、翌々年(2003年)には大量破壊兵器の拡散の脅威の懸念があるとして米国によるイラク攻撃がはじまりました。(その後、イラクからは大量破壊兵器はみつかっていません)
一方、我が国においても、それまでの『国防の基本計画』(1957年決定)が見直され、新たに『国家安全保障戦略』が2013年の12月に閣議決定されました。
この国家安全保障戦略において特に重要なことは、世界が平和でなければ日本の平和を実現することはできず、日本一国平和主義はありえない、としたことです。
この積極的という言葉を「非(軽装)武装のままであるからこそ、積極的なのだ」と歪んで解釈している人がおられますが、むろんそれは間違いです。
正しくは「武力を背景とした積極的外交による平和主義」と捉えるべきです。
そのうえで気になるのが、防衛省が『防衛の基本的考え方』のなかで、未だに「専守防衛に徹する」ことを謳っていることです。
そもそも専守防衛などと言うものは軍事的に成り立ちません。
以前、あるプロボクサーに次のように訪ねたことがあります。
「対戦相手と技能が互角、もしくは格下であった場合、ガードとジャブだけでドローに持ち込むことは可能ですか?」と。
そのプロボクサーの答えは、むろん「No!」でした。
いかにガードとジャブが上手くとも、相手を倒す「ストレート」や「フック」を持っていないボクサーではガードもジャブも効力を発揮しない。
これと同様で、一定時間を稼いで全体に寄与する城や要塞はあり得ても、日本の国のように広正面の国をハリネズミのように守る技術はなく、100歩譲ってあり得てもそれを構築維持するのに天文学的な金額を要することでしょう。
主権通貨国である、さすがの日本でもインフレ率を無視して通貨を発行し続けることはできません。
これから始まる自民党総裁選挙によって、必ず新しい総理が国会で選ばれることになります。
総裁選挙に立候補される自民党議員の顔ぶれが、いよいよ出揃いました。
立候補を表明された人たちは必死に政策提言をされていますが、残念ながら専守防衛についての議論は未だに聞こえてこない。