言うまでもなく私たち日本国民の日々の安寧というものは、日本国という国民国家が創出する安全保障の上にこそ成立します。
例えば国防、治安、災害、医療、介護、保育、教育、食料、エネルギー、物流などなど、これらの分野の安全が保障されていなければ、私たち国民の生活はままならない。
現在のアフガニスタンがそうであるように、治安がまともに機能していないところ、あるいは女性に教育を受けさせないというようなところでは国民はまさに「手足置くところ無し」です。
といって「アフガニスタンに比べれば、日本はいい国だ」と思う人も多いかもしれませんが、必ずしもそうとは言えません。
近年、我が国では、インフラ施設の老朽化、あるいは整備の遅れから国全体の防災力が低下し、地震や土砂、あるいは河川氾濫などにともなう自然災害死が増えています。
昨今のコロナ問題でも、パンデミックとはいえ病床逼迫によって病院にたどりつくことすらできず自宅で命を落とされる人がおられます。
過日も、電車に乗っていただけなのに刃物で刺されてしまった事例も発生し、駅を歩いていただけで硫酸をかけられてしまった人もいます。
教育の分野でも、国立大学の予算は年々カットされ、驚くことに今やIPS細胞の山中教授の研究室でさえ研究者の7割以上が任期付き非常勤だという。
さらには、黒字赤字を理由に民営化されていった保育所では保育士さんたちは低賃金労働を強いられていますし、「せめて食べるものぐらいは安全なものを…」と思っていたのに、今では国の農薬基準は緩和され、国民はグリホサート漬けの食料を食べさせられている始末です。
水という生命に不可欠な源でさえ、危うい。
例えば地方自治体が管理運営する水道事業ですら、安全性よりも利潤を追求する外資系企業に運営権が売却される時代です。
数え上げればきりがありませんが、日本がこんな国になりはじめたのはいつのころからか?
実は、つい最近のことではありません。
その流れは、既に1980年代からはじまっています。
加速化したのは1990後半から2000年代です。
つまり、いわゆる「グローバリゼーション」なるものが絶対的正義とされた時代です。(インターナショナリゼーションではない!)
このグローバリゼーションを正当化する思想こそが「新自由主義(ネオリベラリズム)」であり、正当化する学問こそが「新古典派経済学(ネオクラシカルエコノミクス)」でした。
この思想と学問こそが、まさに国民が安全に豊かに暮らすためのシステムを悉く破壊していったわけです。
そして今の日本の政治の最大の問題点は、国家を運営している為政者(エリート)たちがこの新自由主義に対して無抵抗であることです。
であるからこそエリートではない私の議員としての最大のテーマは、新自由主義による破壊から国民を守ることにあります。
因みに、意外に思われるかもしれませんが、このコロナ下、長きにわたり事業者に対し営業自粛を要請しているくせに政府が充分な補償をつけないのもまた、「新自由主義(新古典派経済学)」の論理が背景にあります。
それから、「法人税減税」もまた新自由主義(新古典派経済学)の論理で、今なおこれを叫ぶものたちがいます。
彼らは言う。
「法人税減税の主な目的は、海外企業の日本誘致を促進し、日本企業の国際競争力を高めることです」と。
さらに法人税率を引き下げることで日本経済全体の活性化を図ることが期待される、と言っているわけです。
もしもそれが事実なら、我が国の「貿易収支」は法人税率の引き下げとともに飛躍的に伸びていかねばなりません。
しかしながら現実は、冒頭のグラフのとおりです。
法人税率は順調に引き下げられてきたのに、貿易収支の近似曲線は見事に右肩下がりです。
それどころか、飛躍的に伸びたのは貿易収支ではなく消費税率です。
要するに法人税率の引き下げは、日本経済の発展が目的だったのではなく、たんにグローバル投資家からの要請だったのです。
グローバル投資家への配当金の原資は、企業の純利益です。
ご承知のとおり、法人税が減税されることで企業の純利益は増えますので、その利益はグローバル投資家たちが得ることになります。
要するに、グローバリゼーションは国民のためにあるのではなくグローバル投資家のためにこそ存在する、と言っても過言ではありません。
グローバル投資家様のために法人税を減税した分、政府は消費税で税収を回収しているわけです。
消費税率を引き上げられて困るのは、働くことによって所得を稼ぐ国民です。
グローバル投資家たちのように資本収益で稼ぐ人たちにとっては痛くも痒くもありません。