第二次世界大戦中、ナチスに迫害された多くのユダ人を救った日本人といえば、杉浦千畝が有名です。
当時、ポーランドを逃れ、リトアニアのカナウスに殺到していたユダヤ人難民に対し、英米の領事館はビザ発給を拒んでいました。
そのため、カナウスのユダヤ人難民は日本領事館に押し寄せました。
そこでビザを発給したのがカナウス日本領事の代表だった杉浦千畝です。
彼は、寝る間も惜しんで通過ビザを発給した。
昭和15年7月から1ヶ月間にわたり、2139枚のビザを書き続けました。
外務省の命令で帰国しなければならなくなったときも、出発間際の汽車の中で窓越しから次々と差し出される発給書に必死で「杉浦千畝」とサインし続けました。
そのビザを得ることができたユダヤ人難民のすべてが敦賀港から上陸し、安全な日本に滞在することができました。
これが多くの日本人が知る杉浦千畝の功績です。
ただ、ユダヤ人難民を救った日本人は、杉浦千畝だけではありません。
遡ることの昭和13年2月、大量のユダヤ人難民の第一陣がヨーロッパから広大なシベリアの原野をシベリア鉄道に揺られて満洲国の北東の端、満州里駅のすぐソ連側にあるオトポールに到着しています。
ナチスから命からがら必死で逃れ、ポーランドを経由して脱出してきたユダヤ人たちです。
ソ満国境オトポールには、次々とユダヤ人難民が連日のように到着し、その数は2万人ちかくにまで膨れ上がりました。
まともな施設などないため、ユダヤ人難民たちは急ごしらえのバラックやテントで耐乏生活を強いられます。
シベリアでは気温が零下数十度にまで落ちるのは、今も昔も変わりません。
むろん、難民の中には幼児やお年寄りもいます。
とくに彼らが恐れていたのは、なによりもソ連がユダヤ人難民の受け入れを拒んでいたことです。
ゆえにユダヤ人難民は、ソ満国境を越え、一刻もはやく満洲国に入国することを強く望んだのです。
しかし、ユダヤ難民が満洲国に入国するためには関東軍の許可が必要です。
そこで、当時、満洲にあったユダヤ人居留民組織である「極東・ハルビンユダヤ人協会」の幹部たちが、ハルビンにあった関東軍の特務機関の機関長だった樋口季一郎にユダヤ難民の入国を懇願しました。
事実上、満洲国を支配していた関東軍はユダヤ難民の入国を拒むことができました。
しかし、樋口はユダヤ難民を救う決断をします。
樋口にそのような決断をさせた背景には、当時、多くの日本人がナチスによるユダヤ人の迫害を不快に思っていたからです。
そして樋口は軍人として当然のことながら、新京(現在の長春)に司令部をおいていた関東軍の参謀長だった東條英機にユダヤ人難民の入国を許可するように求めました。
むろん、東條英機・参謀長は許可します。
日本軍ではこのような案件は軍司令官ではなく参謀長が決裁していました。
結果、満洲鉄道が何本もの救援列車を、満洲里駅まで派遣して国境を歩いて渡ったユダヤ人難民を収容することになりました。
するとドイツ外務省は、関東軍が大量のユダヤ人難民を満洲国に入れてことに対して日本政府に猛烈な抗議をしてきました。
この抗議は東京から新京の関東軍司令部へとすぐに伝えられます。
これに対し東條英機は「(ユダヤ人難民の受け入れは)当然なる人道上の配慮によって行われたものだ」と一蹴します。
このとき、東條参謀長が樋口に許可を与えなかったならば、ユダヤ人難民が救われることはなかったでしょう。
東條と樋口の名前が、ユダヤ人難民救出の碑に刻まれたのはこのためです。