「選択的夫婦別姓」が原理的帰結としてあり得ない理由

「選択的夫婦別姓」が原理的帰結としてあり得ない理由

川崎市議会の令和7年第1回定例会が閉会しました。

最終日のきのう、私は地方自治法99条に基づく「意見書案」を、ほか3名の無所属議員とともに議会に提案しました。

提案した意見書案は、『いわゆる「夫婦別姓」問題について、用語の混同を廃して国民的熟議を行うことを求める意見書(案)』です。

いわゆる「夫婦別姓」問題については、その賛否をめぐり、国政においても昭和40年代から延々と議論がなされてきたところです。

しかしながら、それらの議論は、議論の前提となる事実と原理を無視したものであり、いわば「事実の隠蔽」とも言わざるを得ないような極めて稚拙で粗雑なものとなっています。

わが国の家族制度は、現行民法の家族法制によって規定され、かつ保障されています。

よって、これを変更することは国民一人ひとりの家族観や生き方にも大きな影響を与えるがゆえに、国会議員とその信任の上に立つ内閣及び国務大臣は、威勢大きな特定勢力や、社会上層の特権的少数者の声のみを「国民の意思」としてはならないのであって、「声なき声」「巧言令色饒舌ならぬ無数の民の声」を丁寧に聴きつつ、学び、熟考し、それらを元に熟議を尽くして国民的理解を得るようにしなければなりません。

そうした熟議のためにはまず何よりも、「氏(うじ)」と「姓(せい)」に対する正しい認識と理解が必要です。

「氏」と「姓」は全く別物です。

日常会話においてこの区別はほとんど意識されていませんが、だからと言って同じではありません。

そもそも「氏」とは、夫婦と子どもを単位とする纏まり、つまり家族の名称です。

「氏」は家族名称であるがゆえに、「氏」を異にすれば当然のことながら別家族となり、「氏」が同じであれば同じ家族である証になります。

このように我が国の家族は、「氏」というファミリーネームによって規定されています。

むろん、ファミリーネームは夫か妻のどちらかを「選択」できますが、あくまでもファミリーネームは一つのファミリーに一つであり、これは制度の原理的帰結です。

一方、「姓」とは、父親の属する血族を表す名称です。

実の父は結婚によって変わりはしません。

よって、「姓」の制度を導入すると、同姓男女の結婚以外はほとんどの夫婦は原理の必然により別姓となり、当然のことながら、母と子供は別姓となります。

そもそも、わが国には民法上の「姓」はありませんので、もしも「夫婦別姓」をやるのであれば、その前にまず「創姓」が必要となります。

しかしながら前述のとおり、「姓」の制度を導入すると必然的に夫婦別姓、母子別姓となりますので、選択はあり得ません。

希望者だけが「夫婦別姓」で、望まぬ者は「夫婦同姓」でいられる、ということにもなりません。

「姓」の制度には夫婦共通の「姓」というものは存在せず、もし希望すれば夫婦共通姓が選択できるのであれば、それはもはや「姓」ではありませんので、「選択」の余地はなく、「選択的」夫婦別姓は原理的にあり得ないのです。

要するに、「選択的夫婦別姓」は、その言葉自体が論理矛盾に陥っています。

このように「氏」と「姓」は原理が異なり、そのどちらにも原理の必然的帰結があります。

別姓であれ別氏であれ、原理に矛盾した「選択」はあり得ない。

繰り返しますが、夫婦別姓実現のためには、その前提として我が国の戸籍制度上に、これまでの「氏」に替わる「姓」をつくる、つまり「創姓」が必要であり、その上で従来の「氏」を廃止するのか残すのか、残した場合には、公的扱いの在り方をどのようにするのかを含めて議論されなければなりません。

残念ながら、現在のわが国で為されている、いわゆる「夫婦別姓」論議は、出発点としての根本である「氏」と「姓」の概念の区別、そして原理の必然的帰結も理解されぬまま、国民を瞞着するような低レベル議論が延々と何十年も続けられているのです。