われら富士山、他は並びの山

われら富士山、他は並びの山

小学生時代、学校(公民教育)でモンテスキューの「三権分立」を習いました。

三権とは、立法権、司法権、行政権のことで、法律をつくったり改廃したりする権限(立法権)をもつのは国会、法律違反を罰したり人々の争い事を裁いたりする権限(司法権)をもつのは裁判所、法律に則って政策を遂行する権限(行政権)をもつのは内閣であると教わりました。

その目的は、国の権力を三つに分けることにより、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障することにあったようですが、社会人になって、とくに国会議員の秘書を務めるようになってからというもの、残念ながら「三権分立」なるものは全くの建前であることを実感しました。

わが国の場合、立法や司法の上に「行政」が君臨しています。

内閣は選挙で選ばれた国会議員たちで組織されますが、内閣を支える官庁(官僚)の力は絶大であり、とくに財務省は「省庁のなかの省庁」あるいは「最強の官庁」などと言われています。

そのことは財務官僚たちも自認していて、大蔵省時代から「われら富士山、他は並びの山」という言葉があったそうです。

すなわち、省庁という山々が連なるなか、唯ひとつ富士山のように財務省という特別な省庁が君臨していると言うわけです。

しかし本来、財務省(旧大蔵省)という官庁は、行政府の会計を担当する一官庁にすぎないはずです。

会社でいえば経理です。

むろん、経理は大切な仕事ですが、経理課が他の事業部署より抜きん出てパワーをもつようなことなどあり得ないでしょう。

もし在ったとすれば、そんな会社は経理課によって経営が傾くことになるでしょうきっと。

しかしわが国の財務省の場合、事実上、経理官庁の枠を越えて政府の予算編成に絶大な影響力をもっています。

本来であれば他の事業官庁の会計経理に専念すべき財務省が、実際には事業官庁に上からものを申しています。

例えば、川崎市の港湾を整備するための予算(国庫補助予算)を確保するために、国土交通省の港湾局長が、財務省主計局の課長レベルの職員に頭を下げているのが実状です。

財務省の権力の根源は、①主税局(予算を振り分ける力)、②国税庁(税務に関わる警察権)、③財政研究会(記者クラブの掌握)の三つにあります。

一般的に政治の世界における権力というものは、予算編成権(税制を含む)と規制制定権です。

予算は各種の行政事業を推進するために欠かせないものであり、私たちの国民生活は様々な規制に守られて成立しているのは周知のとおりです。

現在、予算編成権を手にしているのは間違いなく財務省であり、国民民主党の主張する所得控除額178万円への引上げが実現できないのも、まさに財務省の政治的パワーに拠るものです。

その一方、税制や予算や規制を決める権力の更に上にあるのが「人事権」です。

それこそ歴史の授業で習った「院政」なるものがありましたが、なぜ白河上皇や後鳥羽上皇が絶大な権力をもっていたのかと言えば、上皇(院)が次の天皇を決める人事権をもっていたからです。

天皇よりも、天皇を誰にするかを決めることのできる人の方が権力者となります。

同様に、内閣総理大臣よりも内閣総理大臣を誰にするかを決めるのは国会議員であり(議員内閣制)、その国会議員を誰にするのかを決めるのが国民です。

これが国民主権たる所以です。

ですが、国民世論というものは、残念ながらメディアの報道に流され易いのも周知の事実です。

財務省は、財務省に出入りする記者クラブ(財政研究会)を使って、「ニホンはシャッキンでハタンするぅ〜」キャンペーンを張ってきましたし、今もしています。

その成果あって、国債増発や減税に反対する国民の声は大きい。

例えば「税は財源ではない」「日本国債のデフォルトはあり得ない」と叫んだところで、それを理解してくれる国民は少ないのが現実です。

それでも、昨今では財務省解体デモが起きるようになりました。

少しずつではあるものの、財政問題の真実が国民に知れ渡るようになってきているのだと思いたい。