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議会報告 02 政治・経済

歴史にみる皇統の危機(前半)2019/05/11    

歴史を遡りますと、我が国は幾度かの「皇統の危機」に直面しています。

例えば飛鳥時代、蘇我氏による宮廷支配が進み、蘇我入鹿が皇位を狙うにまで至ったことは有名です。

当時、仏教を崇拝する中心勢力であった蘇我氏は、仏教を背景に強大な力をもっていました。

蘇我氏の勢力拡大に危機感を抱いた崇峻天皇は入鹿の祖父・蘇我馬子の排斥を願いましたが、馬子の差し向けた部下によって逆に暗殺されてしまいまいした。

我が国の歴史上、唯一の臣民による天皇暗殺事件です。

崇峻天皇の暗殺によって空位となった皇位を継いだのが、女帝の推古天皇(男系女性)です。

そして聖徳太子が摂政となって国政を担うことになったわけですが、推古天皇の背後には依然として蘇我氏という大きな政治的存在がありました。

やがて、蘇我馬子の子である蝦夷、さらにその子の入鹿の時代になると、蘇我氏の専横ぶりはますます酷くなり、聖徳太子の子であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)も皇位争いによって皇子とともに入鹿に討たれてしまいます。

これにより聖徳太子の家系(上宮王家)は途絶えることになりました。

以降、蘇我入鹿は自ら皇位を継ごうという野心をあからさまに示すようになります。

臣下が皇位を狙うことなど我が国では考えられないことですが、当時はまだ朝廷の権威が盤石といえるほどには確立されていなかったのでしょう。

その後、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らによる「改新」が成功し、蘇我勢力が打倒されたことで皇統の危機を脱することになったのは周知のとおりです。

さて、皇統の危機の第二は、弓削道鏡です。

時代は奈良時代、天平20(749年)、聖武天皇のあとを継いで即位したのは娘の孝謙天皇(男系女性)でした。

孝謙天皇には子供がおられなかったため、藤原仲麻呂(恵美押勝)の押す淳仁天皇に譲位することになりました。

ここに第47代・淳仁天皇が誕生したわけですが、孝謙天皇と対立していた藤原仲麻呂が乱を起こし鎮圧されてしまったため、その責めを負わされた淳仁天皇は廃位され淡路島に流されてしまいます。

その空位を埋めたのは、なんと上皇となっていた孝謙天皇で、第48代・称徳天皇として再び即位(重祚)することになりました。

実は称徳天皇もまた用明天皇と同様に仏教に熱心な天皇で、法相宗の僧であった弓削道鏡をことのほか寵愛していました。

ここに皇室は蘇我氏の時代と同様に、再び仏教の毒牙により皇統危機に直面することになります。

かつて称徳天皇が重い病に臥せったとき、弓削道鏡が祈祷したことで病が癒えたため、称徳天皇は弓削道鏡への信頼を篤くしたようです。

以後、弓削道鏡は称徳天皇のご寵愛を受けることとなり、宮廷深くに入り込んでいったようです。

因みに淳仁天皇は、孝謙上皇の過ぎたるご寵愛を諌めたために上皇との関係が悪化してしまい、藤原仲麻呂の挙兵を理由に追放されてしまったわけです。

孝謙上皇が称徳天皇として重祚すると、弓削道鏡の宮廷内における権力はますます強まっていきました。(称徳天皇と弓削道鏡はただならぬ男女の仲だったと言われています)

弓削道鏡は称徳天皇から「法王」の称号を賜り、儀式において天皇に準ずる立場にまで出世していきます。

ついには、なんと弓削道鏡を天皇にしようとする動きまで出てきます。

どうやら弓削道鏡は「自分を皇位につければ天下泰平になる、という宇佐八幡のご信託がありました」とかなんとか言って称徳天皇に吹き込んだらしい。

しかし、さすがに称徳天皇は躊躇します。

ご自身の御代で皇統を断絶させるわけにはいきませんので、当然の躊躇だったと拝察します。

そこで登場したのが、和気清麻呂(わきのきよまろ)です。

因みに、京都の「清水寺」は和気家の氏寺です。

称徳天皇は清麻呂を宇佐八幡に遣わし、弓削道鏡の言うご信託が正しいのかどうか、今一度、宇佐八幡のご信託を受けに行かせました。

それを聞いた弓削道鏡は、清麻呂を呼びつけ、賞罰をちらつかせて圧力をかけたようです。

おそらくは「自分に有利になるように言ってくれれば高い位につけてやるよ」とでも言ったのでしょう。

しかしながら、清麻呂が持ち帰った宇佐八幡のご信託は次のようなものでした。

明日につづく…