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議会報告 02 政治・経済

昭和3年の今日「済南事件」2019/05/03    

本日、5月3日は、我が国の近現代史を振り返りますと実に感慨深い日でございます。

例えば、昭和3年の今日、済南事変が起こり…

昭和21年の今日、極東国際軍事裁判が開廷され…

昭和22年の今日、占領憲法(占領政策基本法)が制定されました。

さて、今日は「済南事変」について取り上げさせて頂きます。

戦後教育を受けてきた日本国民の多くは「済南事変」を知らないのかもしれません。

昭和2年8月に国民革命軍司令官を辞職し下野した蒋介石は、その年、来日し東京青山にあった田中義一(当時・首相)の私邸を訪れています。

このとき蒋介石は田中首相から「いま直ちに北伐を行うのではなく、まずは南方を堅め、その後に北伐すべし…」と助言され、蒋介石もまたそれに同感したようです。

田中首相は、親日派とされる蒋介石に、なんとしても内乱状態のシナを統一してほしいと願っていたわけです。

当時、日本にとって厄介だったのは、大陸における日本人居留民に対する「排日運動」でした。

翌年(昭和3年)4月、蒋介石は再び国民革命軍総司令として第二次北伐の軍を進めることになりました。

さて、その北伐の過程で、同月中旬に蒋介石軍は早くも済南を包囲する態勢に入りました。

済南は、中国山東省の西部に位置する市です。

済南市は人口約38万、戸数約7万の街で、そこに1810人の日本人居留民が住んでいました。

事件は5月3日に朝に起きました。

蒋介石軍の暴兵が、満洲日報取次店の良房長平さん方を突如として襲撃掠奪したことが発端となりました。

彼らは、急ぎ駆けつけた日本人巡査に対しても暴行を加えました。

そこへ、派遣されていた日本の救援部隊が現場に急行したため、中国兵は忽ちに循走して兵舎に隠れ、なんとそこから銃撃を加えてきました。

これにより交戦状態に入ります。

結局、シナ事変というのはこういったことの繰り返しでした。

互いの政治目的のため国家と国家とが戦時国際法に基づいて交戦するという意味での「戦争」では全くありませんでした。

だから「事変」なのです。(それを東京裁判史観は『日中戦争』と歪曲します)

というか、もはや「事変」でもなく「事件」です。

さて、交戦状態に入った済南市はどうなったか?

残念にも、中国兵による乱射掠奪が一挙に市中に拡大していきました。

間もなく、両軍間に停戦の申し合わせが成立するのですが、いつもどおり中国兵は約束を守らない。

『昭和三年支那事変出兵史』によれば、5月3日〜4日の戦闘に参加した日本軍の兵力は、歩兵約5大隊、騎兵1小隊、野砲兵2中隊そのほかでしたが、そのうち、戦死9人、負傷32人だったとのことです。

またこの戦闘の間に、東西両地区警備隊は守備線外に離散していた日本人居留民約280人を弾雨を冒して収容しましたが、12人(男10人、女2人)の居留民は3日正午ごろ、蒋介石軍の暴兵の手によって惨殺されました。

その後の5日、済南駅東方鉄道線路付近に隠匿埋没していた鮮血生々しい死体9名が、6日には津浦駅付近で遺体1名が、9日は白骨と化したものを2名が発見されています。(中村粲『大東亜戦争への道』)

いずれも日本人居留民のものです。

事件直後に、惨死体を実見した佐々木到一(南京駐在武官・中佐)の手記によれば、この済南事件において蒋介石軍が日本人居留民に対して加えた暴虐掠奪は言語に絶する悪魔の所業であったといいます。

最後に、その一文をご紹介します。

「手足を縛られ、斧のようなもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されていた。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼き残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である」(佐々木到一『ある軍人の自伝』)

今日は全国各地で「占領憲法を守る会」が開かれることでしょう。

戦後74年を経てもなお、我が国は東京裁判史観に支配されています。