〒214-0012
川崎市多摩区中野島3-15-38-403
TEL:044-934-3302 / FAX:044-934-3725



議会報告 政治・経済

歴史という情報戦を戦う(その6)2019/03/02    

李氏朝鮮では、王位が父から子への直系継承が行われなかった場合、新しい国王の実父に対して「大院君」という称号が与えられます。

日本が必死に修好条約の締結を求めていたころの朝鮮では、その大院君に与する勢力が排外主義を標榜し権勢をふるい、何かと難癖をつけては明治新政府との国交に異を唱えていました。

しかしながら江華島条約が締結されて以来、大院君派は力を失います。

その後、国王の后である閔妃(びんひ)とその一派が中心となって、ようやく朝鮮の近代化が動き出します。

1881(明治14)年には大規模な使節団を日本に派遣することになりました。

当時の日本政府の目的は、あくまでも朝鮮の独立と近代化です。

そのことこが結果として日本国の独立に寄与することになるからです。

同年末から翌1882(明治15)年の春にかけて、朝鮮は日本から陸軍工兵少尉の堀本礼造を招聘し、その指導を仰いで新式軍隊を編成するなどの軍政改革を行いました。

ところが、そう容易く事が運ばないのが彼の国です。

その翌年の1883(明治16年)、軍政改革によって廃された古い軍隊が反乱を起こします。

あろうことか、この反乱を大院君が扇動し、閔妃一派の重臣を殺害するなど、閔妃自らも命からがら逃げるという事態が発生しました。

それだけではありません。

朝鮮の軍政改革に貢献した堀本礼造を含む多くの日本人までをもが殺害され、日本公使館も襲撃されました。

いわゆる「壬午の乱」です。

このとき、乱を鎮圧したのが清国です。

あざとい清国は、すばやく5千の兵を朝鮮に派遣し武力で反乱を抑え、反乱の扇動者だった大院君を清国に連れさり抑留しました。

そして3千人の兵を朝鮮に留め置き、閔妃一派を取り込みます。

取り込まれた閔妃一派は、清国の傀儡と化し、なんと近代化路線を捨ててしまいます。

清国が宗主国で朝鮮は属国であるという関係を再確認し、新しい軍隊も司令官もすべて清国の支配下に置かれることになりました。

いつの時代でも軍事力が外交力を決定します。

即ち「壬午の乱」を清国が軍事的に制圧したことで、日本外交は再び敗北することになりました。

なお、歴史的に朝鮮では、軍事的政治的に優位にあるほうに擦り寄る外交政策が採用されがちです。

これを「事大主義」といいます。

常に強い方に付き従う、「大に事(つかえ)る」という主義です。

米国が優勢であると思えば米国に従い、ロシアが優勢であると思えばロシアに従い、中国が優勢であれば中国に従う。

カネになると思えば、それら大国の力を背景に例えば史実を捻じ曲げ、締結した条約など無視してでも隣国を罵って憚らない。

明日につづく…