〒214-0012
川崎市多摩区中野島3-15-38-403
TEL:044-934-3302 / FAX:044-934-3725



議会報告 02 政治・経済

歴史という情報戦を戦う(その5)2019/03/01    

我が国の国書を頑なに拒み続ける朝鮮でしたが、1871(明治4)年には朝鮮が宗主国と崇め奉る清国との間に『日清修交条規』が先に締結されています。

1874(明治7)年、気を取り直した日本政府は外務省の役人を再び朝鮮に派遣します。

外務官僚の頑張りもあって、そこでようやく「新たな書簡を送ったら朝鮮側が必ず受け取る」という確約をとりつけました。

やれやれ…

翌1875(明治8)年、その確約どおり日本の使節は渡韓し、朝鮮側から正式な返書を受け取ろうしたのですが、今度は「日本の使節が洋式の汽船に乗り、洋式の大礼服を着てきたのがけしからん」と言われ、またもや交渉は拒否されてしまいます。

明治維新から既に8年あまりが過ぎていたにもかかわらず、一向に事態は打開されませんでした。

そうしたなか、妙なところから朝鮮との外交に転機が訪れます。

1875(明治8)年、朝鮮西岸の航路研究を行っていた日本の軍艦・雲揚号が飲料水を求めてソウル市北西にある江華島に近づいたときのことです。

江華島は、かつてフランス艦隊が浅瀬に乗り上げ撃退させられてしまった島です。

その前年、日本(外務省)の役人が朝鮮と折衝した際、日本の国旗を渡し「こういう旗を揚げていたら日本の船だから宜しく頼みます」と申し入れてありました。

だからこそ、雲揚号は国旗を掲げ飲料水を求め江華島に近づいたわけです。

にもかかわらず、江華島の砲台から突如として砲撃を受けました。

びっくりした雲揚号の艦長は即座に反撃の命を下し、陸戦隊を江華島砲台に送り込んで朝鮮側から武器を没収し安全を確保したのです。

フランス艦隊とは違って、我が雲揚号は浅瀬に乗り上げ立ち往生することはありませんでした。

これがいわゆる「江華島事件」です。

それまで頑なに拒み続けてきた朝鮮は、なんと江華島事件をきっかけについに日本との修交協議を受け入れ、1876(明治9)年2月26日、ようやく『日鮮修好条規』(江華島条約)が調印されました。

この条約で最も重要な点が戦後の教科書からすっぽりと抜け落ちています。

それは何かというと、条約の第一条に「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を有せり」とあることです。

日本はわざわざ平等であることを条約に明記し、朝鮮を自主の国として認めたのです。

少なくとも近代以降、朝鮮を自主独立の国として最初に認めたのは日本国です。

明日にづづく…