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議会報告 02 政治・経済

歴史という情報戦を戦う(その2)2019/02/26    

我が国は、明治のご一新により近代化の第一歩を踏み出したわけですが、まずはそのことを内外に知らしめる必要がありました。

とりわけ諸外国に対しては、王政が復古され新たな国家体制が樹立されたことを通告するとともに、近隣各国に対し改めて修好を提議したわけです。

1871(明治4)年5月には、明治政府と清国政府との間で修交に向けた外交交渉が行われ、その2ヶ月後の7月には『日清修好条規全十八カ条』が調印されています。

この条約のポイントは、日本と清国とがお互いに治外法権と領事裁判権を認め合うという「平等条約」だった点です。

我が国と中国とは、意外にも近代の初めから敵対関係にあったわけでなく、『日清修好条規全十八カ条』のもとに対等平等の関係からスタートしたのです。

さて当時、我が国にとって最大の地政学的脅威は、むろん大国ロシアでした。

例えば1860(万延元)年にはロシアは既に清国から沿海州を割譲し、ウラジオストックに軍港を開いています。

因みに、ウラジオストックというロシア語は「東(日本)を獲れ」という意味です。

とはいえ、ご承知のとおりウラジオストック港は「凍港」と言われように冬は氷の中にあって使い物になりません。

よってロシアは、凍らない港、即ち「不凍港」を求めて常に南下政策を模索していました。

そこで、当時のロシアにとって最も手っ取り早い強奪対象地域が朝鮮半島でした。

もしもロシアが南下して朝鮮半島を植民地とし不凍港を手に入れたとすれば、我が国は元寇以上に国家存亡の危機に陥ります。

朝鮮が清国のように排外的なことばかりしていると、やがてはロシアをはじめ西欧列強の植民地と化してしまいます。

であるからこそ、我が国は日本と同様に朝鮮半島にも開国・近代化を期待したわけです。

明治政府は1868(明治元)年の1月、各国に王政復古の旨を通告しましたが、朝鮮に対しては、それまで朝鮮との橋渡しをしてきた対馬藩主を通じて通告し、修交回復を希望する日本政府の「国書」を提出しました。

ところが、その「国書」に「皇」や「敕」や「朝廷」の文字があったことや、書簡の形式が前例と異なったことを理由に、朝鮮は日本の修交提議を拒否し、あろうことか「国書」を突き返してきました。

つまり、「皇」「敕」「朝廷」などの文字は、自分たち朝鮮の宗主国たる清国(中国)だけが属国に対して使うべき文字であり「日本が使うことは何事か」ということです。

政権が一新したのですから、政治外交のあらゆる形式も一新されるのは当然のことだと思います。

それに、なんといっても、彼らが宗主国と崇める清国は日本の修交提議にすんなり応じています。

それなのに…

彼の国の本質は、今と何ら変わらない。

明日につづく…