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議会報告 政治・経済

「30万人」には訳がある2018/08/07    

慶長5(1600)年9月15日の早朝、美濃の国・関ヶ原(現在の岐阜県関ヶ原町)で、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が深い霧のなか睨み合っていた。

軍勢は、両軍合わせて10万を超える。

霧が薄くなってきた午前8時ころ、家康配下の井伊直政隊と松平忠義隊が、西軍前線に陣をひいていた宇喜多秀家隊に襲い掛かり、ついに合戦の火蓋が切られた。

東西両軍の力は拮抗し、お昼ごろまでは一進一退の攻防が続いた。

関ヶ原を見下ろす位置にある松尾山で陣取っていた西軍の小早川秀秋は、東軍の家康に寝返るかどうか悩み、軍を動かさず戦況を見極めていた。

正午ごろ、業を煮やした家康が戦局を動かす。

静観していた小早川秀秋に裏切りの決断を促すべく、家康は小早川の陣にむけ威嚇射撃(問鉄砲)をした。

小早川秀秋は、家康に恐れをなし東軍への寝返りを決断する。

松尾山から駆け下りて、西軍の大谷吉継隊の横っ腹に小早川隊が襲い掛かった。

これによって西軍から裏切り者が続出し、戦いの流れが決した。

午後2時ごろ、三成たちは壊滅状態に陥って、東軍の劇的な勝利に終わった。

これが、世にいう「関ヶ原の戦い」の定説です。

ところが、この定説は、あくまでも江戸時代の軍記物語や幕府の編纂物などの二次史料に基づく後世に創作された「物語」であって、必ずしも史実ではありません。

戦いがあったのは事実ですが、戦いの様相は定説とは全く異なるようです。

歴史検証とは史料検証です。

検証されるべき史料は、一次史料(同時代史料)でなければなりません。

当該事件が発生してから、50年以上を経て書かれた史料は残念ながら二次史料以下です。

当時の人たちによって書かれた手紙(書簡)や日記、編纂物こそが一次史料です。

さて、一次史料によって「関ヶ原の戦い」を検証している第一人者は、おそらく別府大学の白峰旬先生です。

白峰先生の一次史料に基づく検証によれば、合戦当日の主戦場はなんと「関ヶ原」ではありません。

関ヶ原から南西2キロほどの位置にある「山中」です。

徳川家康が伊達政宗に宛てた手紙にそのように書かれています。

それに、昭和50年代に行われた古戦場(関ヶ原)の発掘調査では、合戦があったことを示す遺構はついに発見されていません。

「山中」の東に位置する不破の関からは、合戦時に使用される火縄銃の弾丸が出土しています。

あるいは、実際に主戦場となった「山中」での戦いは、午前10時ごろから午後12時ごろの短時間だったといいます。

午前中の一進一退の攻防もまた、後に創作された物語です。

また一次史料によれば、小早川秀秋は合戦前日から既に東軍の将として布陣していましたし、石田三成は笹尾山に布陣しておらず、家康に至っては合戦当日、関ケ原にはいなかったことが解っています。

家康は、西軍側の前線基地である大垣城攻略の後詰部隊として美濃赤坂に陣取っていたようです。

このように、一次史料に基づいて歴史を検証していくことで、はじめて史実が明らかになっていきます。

残念ながら、これまで私たちが史実と信じてきた「関ヶ原の戦い」という劇的な物語は、二次史料や三次史料、あるいは四次史料に基づいた後世の研究者や作家たちの創作です。

さて、我が国においては近代史も同様です。

私たち、とりわけ戦後教育でたたき込まれた近代史、とくに「太平洋戦争史」は一次史料に基づく史実(大東亜戦争史)ではなく、いわば二次史料にも三次史料にも基づかないフィクションです。

例えば、終戦前の昭和18(1943)年の段階において、米国は既に『平和と戦争』というタイトルで米国側からみた「太平洋戦争史」を編纂しています。

戦後、米国は占領政策(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の一環として、この『平和と戦争』を教材として使うように文部省に命じています。

あるいは、東京裁判(極東国際軍事裁判)という国際法に基づかいない不当な裁判によって私どもの国は犯罪国として断罪されたわけですが、その東京裁判で認定された歴史の一つが、いわゆる「南京大虐殺」です。

南京を制圧した日本軍が30万人もの南京市民を虐殺したことにされていますが、さすがに現在ではそれを信じる日本国民も少なくなってきました。

もともと人口が20万程度の南京で、どうやって30万人の市民を虐殺できるのか極めて不思議な話です。

むしろ日本軍が制圧して南京の治安が回復したことで、それまで郊外に避難していた南京市民が市中に戻ってきたほどです。

なんと、日本軍が制圧したのち、南京の人口は25万人にまで増えています。

そのことも、当時の日本軍が南京市民に食料を配給していたことから史料(一次史料)によって確認できたわけです。

そもそも、毛沢東だって蒋介石だって「南京大虐殺があった」などと言っていません。

戦争が終了してから突然に「東京裁判」で浮上した事件です。

この裁判で「南京大虐殺」の証拠とされたのは、ことごとく一次史料に基づくものではありません。

偽造された写真、あるいは伝聞や噂程度の証言です。

因みに「30万人」という数字が出てきた背景についても、私にはだいたいの検討がついています。

米軍は、広島と長崎への原爆投下によって、約30万人(後遺症などでその後死亡された人も含める)の非戦闘員を殺戮しました。

むろん、国際法違反です。

米軍にはそれだけの後ろめたさがある。(反省はしていないが…)

その「後ろめたさ(数字)」を相殺するためには、「日本軍も30万人の非戦闘員を殺した」したというフィクションが彼らには必要だったのだと思われます。