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議会報告 政治・経済

松下村塾に負けずとも劣るまい「小栗塾」2018/07/11    

鳥羽伏見の戦いで薩長連合軍に惨敗し、大坂城にこもる幕軍をも見捨て、急ぎ江戸に逃げ帰ってきた最後の将軍・徳川慶喜。

逃げ帰った慶喜に、薩長軍への徹底抗戦(主戦論)を唱えたことで勘定奉行(現在の財務大臣)の任を解かれたのが小栗忠順(おぐり ただまさ)でした。(「上野介」は官職名であり名前ではない)

幕臣としての引き際をわきまえていた小栗は、知行地である上州権田村(現在の群馬県高崎市権田町)への「帰農願い」を幕府に提出し、「帰農勝手たるべし」との許可が下りて、慶応4(1868)年3月1日に権田村にある東禅寺に到着しました。

権田村に帰農した小栗が、はじめに手掛けたのは用水設備や教育などの「インフラ整備」でした。

近代日本の礎を築くため、それにふさわしい「教育」を権田村の若者たちに施したい、という熱い思いから、小栗は権田村の観音山に屋敷の建設を進め、そこを教育の場にしようとしていたようです。

屋敷を建てるにしても、観音山には用水がありませんでした。

用水設備のなかった観音山で、手始めに行ったのが小至沢(こいたりざわ)の測量です。

それにより、小栗はたちまちにして観音山に水を引いたのです。

たちまちにして観音山に水が引かれたのをみて、近隣集落の人々は大いに驚きました。

さっそく彼らは「うちの地域は水が細くて大雨が降らないと田植えができない、ぜひ…」と言って、小栗に用水整備をお願いしました。

むろん、小栗は快く引き受けます。

小栗は家臣に命じて稲瀬沢(いなせざわ)から尾根を回り込んで水を引くルートを測量させました。

『小栗日記』によれば、小栗は測量の様子を二度も視察しています。

民の暮らしを支えるインフラを整備するため、尽力を惜しむことのなかった小栗なのです。

測量をほぼ終えたのは、慶応4(1868)年4月ごろです。

慶応4(1868)年4月といえば、その月の6日、薩長軍の言うところの“官軍”に囚われた小栗は、無実の罪を着せられ殺害されてしまいました。

小栗の死後、地元の人々が測量ルートに従って開削し完成させたのが、今に残る「小高用水」です。

戦後は別の用水も加えられ活用されていて、150年を経た今もなお、小高用水は小高地区の田を大いに潤し、地元の皆様の生活基盤になっています。

さて、科学的根拠のない財政破綻論を理由に国民生活の基盤となるインフラ整備を怠っている現在の日本の政治に辟易としつつ、偉大なる小栗の功績に思いを馳せたわけですが、西日本を襲った記録的豪雨など自然災害の頻発を受け、インフラの災害対策を進める国土強靱化が政府の予算編成の焦点に浮上しているようです。

今さらかっ!

散々「カネがない」と偽って、公共事業費を減らしてきたのではなかったのか。

多数の犠牲者がでないと、この国は政策変更ができないのでしょうか。

むろん、「今さら」でもやってほしいと思いますけど…

前述のとおり、権田村に帰農した後、真っ先に用水を整備し、教育を手掛けようとした小栗でしたが、もしも小栗が薩長政府に殺されることなく、観音山に「小栗塾」が成立していたなら、吉田松陰の松下村塾に負けずとも劣らない人材養成機関になっていたのではないでしょうか。

きっと、そうにちがいない。