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議会報告 政治・経済

郵便の歴史2018/06/29    

郵便の歴史を紐解くと、その起源は紀元前6世紀半ばごろに遡ります。

このころ既に、古代ペルシアでは駅伝制が敷かれています。

ペルシアの一定区間ごとに宿場所を設けて馬を配置し、飛脚によって通信の時間を短縮することで各地方の情報収集をしていました。

むろん、はじめは軍事と統治のための公共インフラだったわけです。

日本では蘇我の蝦夷と入鹿が殺されたころ、いわゆる大化の改新(645年)のころ、畿内には既に駅場が設けられていて、やはり公用や軍用を目的とした駅伝制度がはじまっています。

馬に変わって人間の脚力、いわゆる「飛脚」による伝達が誕生したのは鎌倉時代のことです。

公用でも軍用でもない、私的な通信のはじまりは江戸時代に入ってからです。

江戸時代といっても、ちょうど大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したころです。

二条城で勤番をしていた旗本(幕府の高級官僚)が、江戸の家族との通信用として、毎月3回、家来を飛脚として手紙を往復させていました。

これが我が国における私的な通信のはじまりではないでしょうか。

とはいえ、私的通信を利用できたのは高級官僚だけ。

3代将軍・家光のころになってようやく、江戸・京都・大阪の3大都市の商人が、一般人の通信を扱いはじめます。

東海道を往復していた飛脚は道中日程を片道6日と定められていたことから「定六」(じょうろく)と呼ばれていたそうです。

馬とはいえ、6日で東海道を駆け抜けるのですから凄いですね。

さてその後、ご承知のとおり、明治に入って近代郵便制度が構築されていきます。

近代郵便制度といえば、前島密(まえじま ひそか)。

前島は「これからは漢字などなくして、すべてカタカナにしてしまえ」と提言したほどに病的な西洋かぶれの男でしたが、とりあえず、それはさておきます。

とにかく前島の活躍により、明治4(1871)年、東京・京都・大阪の相互間とその沿道主要都市で、国営による新式郵便の制度がはじまりました。

これにより、それまでの飛脚業者は貨物の運送業に転じることとなり、明治6(1873)年から、手紙などの信書の扱いは国家の独占事業になります。

当初、郵便を取り扱っていたのは、「郵便役所」と、郵便取扱役に任命された民間有志の自宅である「郵便取扱所」でしたが、明治8(1875)年から、これらの機関を現在のように「郵便局」と呼ぶようになりました。

因みに、この「郵便取扱所」が、あの小泉政権(ネオリベ政権)に既得権益団体というレッテルを貼りつけられた「特定郵便局」です。

その後、郵便局が郵便のみならず「郵貯」など銀行業務、「簡保」など保険業務を担うことになったのは周知のとおりです。

いわゆる郵政3事業(郵便事業、銀行事業、保険事業)です。

例えば郵便事業は、つい最近まで、ハガキ一枚を僅か50円で、日本の領土内であれば、どこからどこへでも確実に迅速に運んでくれるほどの超ユニバーサルサービスを担ってくれていました。

たとえ、あの佐川急便でも、あるいはあのヤマト運輸でも採算性の観点から、たったの50円でハガキ一枚を日本全土に運ぶことは不可能でしょう。

郵便局がそれを担うことができたのは、郵便事業、郵貯事業、簡保事業の3事業が一体となって運営されてきたからです。

ありていに言えば、採算度返しで行われる郵便事業の赤字を、郵貯や簡保などの黒字事業で補うことができたのです。

また郵貯や簡保で集められた資金は財政投融資にも活用され、我が国のインフラ整備にも大いに貢献しました。

その意味では郵政3事業そのものが、私たち日本国民の生活にとって欠かすことのできない重要な「公共財」そのものだったわけです。

その貴重な公共財を「既得権益」という一言で解体したのが「小泉郵政改革」だ。

お陰で、今では全国の郵便局がアフラックのがん保険販売所と化し、小泉政権発足時には417兆円もあった財投資金残高は今や150兆円にまで縮小し、民営化すれば安くなると言われていた郵便料金はむしろ値上げされてしまいました。

このままいくと、年々、郵便料金は値上げされていくか、もしくはサービスが縮小されていくこととなるでしょう。