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議会報告 下天の幻

『下天の幻』~信長的改革論~
第12回 目的ごとに居城移転した信長戦略
2005/05/15    

  私ごとだか、今年で34回目の誕生日を迎えた。

 史上の改革者の多くがそうであったように、改革断行の末に暗殺され命脈を絶つことが、大仰ながら私のささやかな夢である。

 幕末の偉人である坂本龍馬は33歳で暗殺された。終然、私は龍馬よりも長く生きることとなった。

 あるいは、幕臣として横須賀に造船所をつくった日本近代化の父・小栗忠順は42歳で明治政府に命を奪われた。小栗の先駆性と、その徳川への忠誠心とを新政府が恐れた結果である。

 はたして、私は小栗よりも長く生きてしまうのであろうかなどと考えつつ、今からおよそ4世紀半前に34歳の誕生日を迎えた信長について思いを馳せた。

 信長が34歳の誕生日を迎えたのは、永禄10年(1567)のことである。

 この年、かれは舅の斎藤道三の居城であった美濃(現在の岐阜県)の稲葉山城を陥れた。

 誤解の無いように追記するが、この時期、道三は息子・義龍の謀反によって殺され、すでに他界している。

 その道三を殺した義龍もすでにこの世に無く、義龍の子である龍興が美濃一国を治めていた。その美濃の首都が稲葉山城である。

 信長は、舅・道三の弔い合戦という大儀を得て、稲葉山城を再三攻略していた。

 そして信長が34歳の年、ようやく稲葉山城を陥落させ美濃一国を手中にしたのである。

 この美濃攻略には足掛け8年を要した。

 半農半兵の旧来組織から、兵農分離の新組織に改めたその成果がようやく身を結んだといっていい。

 現代の企業経営において、新しい事業や新機軸が5年以上も一定の成果を見出せなかった場合、おそらくその新機軸は撤回されるのではあるまいか。

 しかも古参の取締役たちの反対を押し切っての新機軸であれば尚更だろう。

 この後、信長の新機軸は、美濃平定のみならず天下をも動かしてゆくことになる。

 美濃平定後、かれはすぐに行動する。

 信長は一定の成果に安住して改革の手を緩めるような男ではない。まず、それまでの織田家の居城であった小牧山城から美濃の稲葉山城に居城移転を行った。この稲葉山城を次なる事業・畿内制圧の拠点としたかったのだろう。

 ついでながら、稲葉山城下の「井の口」という地名を「岐阜」と改めた。この岐阜という地名は、中国の周時代に武王が岐山に拠って天下を平定したという故事にちなんだものとされている。いよいよ、信長のビジョンには「天下」が視野にあることを内外に知らしめだしたのである。

 信長の居城移転に、かれの斬新さをよみとることが可能だ。

 他の戦国大名のほとんどが、生涯その居城を移転させることがなかった中で、唯一(といっていい)信長だけが生涯で4度も居城を変転させている。

 たとえば、甲斐(現在の山梨県)の武田信玄はその居館「躑躅ヶ崎館」を生涯出ようとはしなかったし、越後(現在の新潟県)の上杉謙信も雪深き春日山城を拠点としつづけた。むろん、それが当時の常識でもあった。

 武田家や上杉家だけでなく、旧来手法のいかなる大名家においても、先祖伝来の居城を移転することは事実上困難であった。いや不可能に等しい。なぜなら、それぞれの率いる兵隊がその土地に縛られた豪族や百姓たちだったからである。

 また、仮に移転を決断したとしても、それ相応の理由と大儀が必要だったろう。時代が下った現在でも、会社の本社機能に不都合や不便があきらかに生じているのに、

(代々守りしこの社屋を・・・)

 という理由のために、本社機能の移転にふみきれない一部上場企業もあるほどだ。

 それに対し、新生織田家の場合、信長改革で兵農分離を進めた結果、率いる兵が土地に縛られていない。それが比較的に移転を容易にした。こんなところにも改革効果が波及していたのである。

 信長は最初、尾張(現在の名古屋市付近)の那古野城(現在の名古屋城ではない)に居を構えていたが、その後、尾張を統一する過程で清洲城に居を移す。

 さらには尾張統一後、美濃攻略上の理由から小牧山城(現在の愛知県小牧市)に居城を移転した。

 美濃平定後、先述のとおり岐阜に居城を移し畿内平定を進めた。

 その畿内制圧後は、安土城(現在の滋賀県南部)に居城を移した。今度は天下平定の為である。

 

 那古野城 => 清洲城 => 小牧山城 => 岐阜城 => 安土城

 このように合計4回の居城移転であり、信長だけがその目的に応じて居城を変転させているのである。

 おそらく、天下平定の後は石山本願寺を屈服させ、その接収した石山寺跡地に安土城に変わる天下城を建て(信長の後を継承した秀吉がその後、大坂城を築城することになるのだが・・・)、そこを貿易立国の象徴とし、日本の首都としたにちがいない。秀吉のような朝鮮出兵という愚は犯さない。

 さらに、もし信長が生きていたら、を空想する。

 安土城から天下城を大坂に移した信長は、おそらく福岡県の博多あたりに次なる天下城を築き、そこを貿易拠点としたかもしれない。むろん推論の域を出ないが、スペインやポルトガルといった遥かな世界をつねに見据えていた彼のことである。きっと、瀬戸内海の奥座敷に位置する大坂では貿易の不便さを実感したに違いない。事実、当時すでに南蛮貿易をはじめ世界貿易の国内拠点港が堺から博多に移りつつあったのだから。 

 信長の居城移転が他の大名に比べ容易であったと先述したが、それでも「移転」に対する家内の抵抗は甚だしいもので、現実はそう簡単にはならなかった。

 たとえば清洲城から小牧山城への移転のことである。

 信長の移転理由は次のものだった。

「美濃攻めにあたり、斉藤の百姓兵は強い。よって、敵の農繁期中をついて我が弱小専業兵が再三攻め立てる必要がある。そのためには、美濃との国堺にちかい小牧山に軍事拠点を移すべきである」

 現に、清洲は美濃堺から5里(20キロ)以上離れている。美濃堺を越えて進軍するとすれば一日行程となってしまうので、これでは専業兵士の利点が発揮されない。

 ところが、この小牧山移転構想を家臣団のことごとくが反対した。当時の小牧山は清洲よりも遥かに鄙びた地域であったし、兵役上は兵農分離されていたといはいえ、現実に生まれ育った土地を離れることに嫌悪感を抱く家臣もいたのである。

 これに対し、信長は一案を講じる。

 小牧山よりさらに鄙びた二ノ宮という地への移転を提案した。結果、家臣の方から、

「せめて小牧山では・・・」

 と言わせしめ、当初の目的を達したのである。 まこと、巧みな指導力というほかない。

 一方、かれが「天下布武」の朱印を使用しだしたのもこの年(34歳)である。

「朝廷や公家、寺社や座による多元的支配の世の中ではなく、武士が一元的に支配する世」

 という彼の信念と理想を、解り易くキャッチコピー化することにより、家臣から領民に至るまですべての組織にその意味への理解を徹底させようとしたのかもしれない。

 さてこの年、この上ない幸運が信長に舞い降りる。

 京都を追われ越前(現在の福井県)の朝倉家に身を寄せていた足利義昭が上洛を果たすために信長を頼ってきたのである。

 以上、信長の34歳を眺めて・・・