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議会報告 下天の幻

下天の幻 第9回
「信長軍は専門家集団」
2004/11/23    

 前述のとおり、信長はお金で兵士を雇った。そのことが、当時としては実に画期的であったことも繰り返し述べた。

 ここで誤解なきよう断っておかねばならない。
 私は、信長が金にものをいわせた、ということを論じているのではない。かれは、お金の掛けどころ(あるいは賭けどころといってもいい)を変えた。そのことを論じようとしている。

 たとえば、信長以外の武将も、金が無かったわけではない。お金をもっていても、そういう発想を持てなかったのである。つまりは予算配分の硬直化だ。
 あるいは、その発想自体を持っていたとしても、信長の真似は出来なかったのである。その理由についてもくどいように述べてきた。

 要するに、結果として信長軍は兵農分離された。
 兵農分離された信長軍は、いつでもいつまででも戦場に赴くことができた。農繁期農閑期を問わず、常に敵の城を包囲して兵糧攻めにすることも可能であったのである。

 この場合の城を囲まれた側について述べる。
 当時の常識として、囲まれる側の城は、一ヶ月半程度の食糧と弾薬を備えていればよかった。攻め手である百姓兵が、最高でも一ヶ月間程度の駐留しかできなかったからだ。むろん、信長が登場する前までの話しである。
  
 兵農分離されていない一般の大名軍では、ひとりの百姓兵が自分の背中に武器も食糧もすべて背負って行軍していた。
  
 人間が背中に背負うことのできる重量は限られている。
 かれら百姓兵は、30キロ程度の荷物を背負って行軍した。その内訳は、武器や旗や雨具で15キロ程度、食糧となるお米がおよそ15キロ程度である。まるでトライアスロンの選手のような行軍である。

 15キロのお米が、概ね一ヶ月分の食糧となる。
 仮に、出陣して一ヶ月が過ぎてしまうと、占領地で掠奪するか、自分の領地に帰還するしかなかった。
 つまり、囲んだ側の攻め手は、兵糧が尽きる前に落城させねばならなかった。
 逆に、囲まれた側の城兵は一ヶ月程度の籠城戦をしのげば、危機を回避できたことになる。だからこそ、一ヶ月半程度の兵糧しか常備していなかったのである。

 
 しかし、信長軍はちがった。

 信長は兵農分離をすすめた。そのことによって、輸送部隊や工兵隊など全軍を各専門部隊に編成できた。むろん、戦場前線で突撃する部隊とは別にである。
 戦地で砦(軍事施設)をつくるのは工兵隊。食糧弾薬を輸送するのは輸送部隊。というように、近代国家の軍隊のように編成したのである。

 信長軍に限って長期間にわたる駐留や行軍が可能であったのは、このためだ。
 たとえば、石山本願寺との戦いでは、寺を包囲してから6年以上も兵糧戦を展開している。

 黒鍬者と呼ばれる工兵部隊が道や橋をつくり、前線への補給路を確保した。そして、荷駄者と呼ばれる輸送部隊がつねに兵糧弾薬を補給し続ける。

 これでは、百姓兵を前提とした城側は、信長に太刀打ちできるはずもなかった。

 時代の古今、洋の東西をとわず、戦争は、補給が決定する。
 補給体制が敵軍よりも著しく劣弱になったとき、戦争は終結する。
 大東亜戦争の際の旧日本軍もそうであった。軍需工場を相手国の空襲によって壊滅せしめられたときに帝国陸海軍は壊滅した。

 それ以前に、無数の戦線に対し補充すべき兵隊や弾薬を輸送する手段としての船舶が枯渇してゆき、底をつきはじめていた。戦艦は石油で動く。そもそも、その石油のおよそ70%を敵国である米国から輸入していたのだから無理もないのだが。

 当時の政治指導者に信長ほどのリアリズムがあったならば、と思いつつ。