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議会報告 下天の幻

下天の幻 第5回
「気の長かった織田信長」
2004/09/14    

 信長のビジョン遂行の特色の第二は、ビジョンを貫き通す一貫性である。いつの時代でも、どの分野でも、ビジョンを貫き通すことは難しい。

 たとえビジョンを持っていたとしても、 「理想はこうだけれど、現実はこうだから・・・」 といって、旧習との妥協をはかり理想を現実に近づける者も多い。また、ビジョンを持っていればまだ上等の方で、現実にはビジョンそのものを持っている者事態が少ない。  どんな逆境に陥っても絶対にビジョンを変えない信長、その精神の頑強性と一貫性に驚かされるばかりである。  あるいは、よく信長の改革をさして、 「あの時代であったからこそ、信長のような改革ができたのであって、時代環境の違う現代においては難しい」 というような論調を耳にする。  しかしそれは、歴史の中に生きたものの苦労を知ろうとしない無責任な姿勢であり、無知とも言うべき歴史観の欠如というほかない。  信長の時代であったからこそ、簡単に命を奪われる。  いつの時代でも、改革者は命を狙われる。狙われなければ、改革者とはいえない。改革とは既得権益を壊すことなのだから・・・  余計なことだが、昨今、国家指導者やその指導的立場にある為政者の中で、命を狙われた、あるいは奪われたものは何人いたであろう。徹底的に既得権益と闘っている政治家は果たして何人いるであろう。  どんなに改革者を演じてみせても、その改革者が一向に命を狙われないとすれば、国民として一度はその改革者を疑ってみるのも悪くはない。  と同時に、改革の成果なるものは、すぐさま可視的存在として具現化されるものでなく、5~10年、あるいは100年後になってようやく花開く性質であることも付しておかねばならない。  つまり改革の本質は、成果よりも奪命が先に来るのである。だからこそ為政者には、 「後世にこそ評価されよう」 という信念が必要だ。  さて、時代を下っても、そうした例をみることができよう。  たとえば、幕末の勘定奉行・小栗忠順(おぐりただまさ)は、風前の灯火ともいうべき徳川幕府にあって根気よく改革にあたった。それまで長くつづいた幕藩体制が肥大化した結果、その官僚たる旗本たちは時代の常として堕落した。  そこで小栗は、幕府の威光にあぐらをかいてぬくぬくと無駄飯をくらうばかりの旗本たちを改革の対象としたのである。同じ旗本であった小栗は当然に仲間内から疎ましい存在として虐げられる。上役たる老中たちからも煙たく思われ、結果、勘定奉行を解任される。しかし、何度解任されても小栗に変わる優秀な人材が勘定方にいなかった為、結局は小栗にその職がまわってきてしまう。  また、かれは老中たちの猛反対を押し切って横須賀に造船所を創設した。このことが、その後の日本に大きな利益をもたらしたことは言うまでもない。  旗本たちの給料が削られ、幕府の為になるのか否かよく判らない造船所に、莫大な費用が使われたとあっては、旗本たちの小栗に対する嫉妬心も尋常ではなかったであろう。当然のことながら、この間の小栗の行動を理解してくれた人は、ごく稀であった。  歴史の中に生きた小栗にとって、既得権益と闘った改革の毎日は、ひどく寂しい孤独なものであったにちがいない。大政奉還後、かれは明治政府軍に捉えられ、無実の罪を着せられ斬殺されることになる。新政府軍にとって、改革者・小栗の能力と先見性はひどく恐ろしいものであったらしい。  小栗については、拙著をご覧頂きたい。  本題にもどる。  とにかく、信長はどんな抵抗や困難があっても、ビジョンを変えない。そして、改革の成果がなかなか現れなくとも根気強くあきらめない。そういう質(たち)なのである。  鳴かぬなら殺してしまえホトトギス、の句は有名だ。  しかし、その句意は、信長の気性の激しさ、または過激さを言っているのであって、決して気の短い男ということではない。  一例をあげる。  信長が未だ尾張統一を成し得る前、尾張統一をかけて親戚方の織田伊勢守信賢と戦った。身内同士の骨肉の争いである。  このとき、敵将である織田伊勢守は居城の岩倉城に立て籠もる。いわゆる籠城戦を選択するのである。当時の岩倉城は難航不落の名城であったからだ。  このとき、信長はその後の攻城戦を一変させる大戦略を展開した。  まず、かれは型通りに城下町を焼き払った。次いで、城下の人を追い払って城の機能を低下させ、全軍で岩倉城を包囲した。ここまでは、凡将でもできる。  そこからが違う。  包囲後、二重三重に鹿垣(木や枝でつくった冊)を巡らせ、周りに矢倉(簡易的な軍事施設)を建てた。  当時、城を攻める方がこのような防御態勢を採るのは異常な事態である。  通常、城攻めとは、堀を埋め、矢倉を壊し、冊を倒し、速攻突撃する。この時代の軍事事情としては、長くても一ヶ月程度しか駐留できない。食料や弾薬が尽きる前に城を落とさねばならないのである。  しかし包囲後、信長は一向に突撃しない。  敵方は不思議がった。信長軍は自分たちの軍事力に怯えているらしい、と思った。このとき、岩倉城サイドとしては、一ヶ月もすれば信長軍は兵を退くものと楽観した。  ところが、信長は一ヶ月以上経っても撤退しない。  その理由は、この稿で何度も多用している「信長の組織改革」なるものの結果なのだが、そのことは後述する。  結局、三ヶ月後、岩倉城は陥落する。  このとき、この日本史上にはじめて、 「兵糧攻め」  という、新しい戦法が確立する。気の短い男にこんな発想はできまい。  ちなみに、気の長いことで知られる徳川家康は、この兵糧攻めを得意とせず、果敢に敵方に襲いかかる野戦を得意とした。また、信長の秘蔵っ子である豊臣秀吉が毛利攻めをすることになるのだが、そのとき備中高松で実践した有名な「水攻め」も信長の影響といっていい。  それだけではない。熾烈を極めた信長と石山本願寺との戦いは、なんと11年間にも及んでいる。そのほとんどの期間は信長の劣勢だった。なかでも、本拠地決戦である石山寺の合戦では、難攻不落と言われた石山寺を信長は5年間も包囲し続けた。  日本史上で、5年にわたる長期間、兵糧攻めを行った人物は未だ出現していない。  くりかえす。信長は決して短慮な男ではない。むしろ、いかなる困難にも根気強く耐え抜く精神力を備えた人物であった。  よく信長を信奉する経営者で、信長のごとく短気な男になろう、と社員を怒鳴り散らしている社長さんもいる。それは必ずしも的を射ていない。信長を真似するなら、ぜひとも根気強く気の長いところを真似て欲しいものである。