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議会報告 下天の幻

下天の幻 第4回
「同じ戦法を二度と使わない信長」
2004/09/06    

 偉大な改革者としての信長のビジョン遂行には、2つの特色があった。

 まず第一に独創性だ。

 たとえば、天下布武という国家ビジョンは、それまでの社会には全く前例がない。しかも信長は誰に教えられたわけでもなく、何かを参考にしたわけでもなく、このビジョンを創造し天下に知らしめた。それだけに、信長以外の人たちには、この天下布武という言葉は理解し難かったものに違いない。

 この天下布武という言葉をより解り易く現代的に直訳すれば、武士が一元的に支配する「絶対王政」と、いうことができよう。

 現代の基礎教育を受けた私たちは、この「絶対王政」という概念を当然のように理解しているが、信長の生きた16世紀後半に、この言葉を理解できた日本人はまず皆無であったろう。

 また信長自身も、周りの人たちにあえてそれを理解してもらおうとは思っていなかったのではないか。それまでの常識にどっぷりと浸かってしまった人たちに、新しい時代の新しい仕組みを説いたところで、容易に理解されがたいのはいつの時代でも同様であるし、情報技術の未発達な当時であればなおさらのことである。

 ほぼ同世代の世界を見渡しても、このようなビジョンを掲げた指導者は少ない。しいて挙げるとすれば、信長とほぼ同じ時期に生まれているロシア皇帝のイヴァン4世がおり、無敵艦隊で有名なスペイン国王のフェリペ2世がいる。

 モスクワ大公ヴァシーリー3世の息子にして3歳で即位したイヴァンは、後に「雷帝」とよばれるに至るが、弱冠17歳の頃、ロシアに絶対王政を確立した豪腕皇帝である。

 信長よりも22歳年下であるスペイン・フプスブルク朝フェリペ2世も、絶対王政を確立し、40年間の治世でスペインを世界最強の帝国にのし上げた。陽の没することなき帝国、といわれたのは史実としても有名だ。

 こうして、世界の所々に絶対王政という概念が生まれはじめたばかりの頃、わが国・日本にも同じような思想概念をもった為政者が出現する。それが織田信長なのだが、彼がこの絶対王政をいかにして理解し創造し得たのか、まこと日本史の奇観といっていい。

 また、ビジョンを実現するための手段としての個々の政策もまた独創的である。そのことについては、後で述べる。

 あるいは、信長が戦った主な合戦をみても、それぞれ独創的だ。どの合戦をみても、同じ戦法を二度と繰り返すことはしていない。信長は生涯に数え切れにないほどの合戦を経験しているが、ここでは学校の教科書に登場するような主な合戦だけをとりあげてみる。

 まず、どなたにもお馴染みの「桶狭間の戦い」である。

 対戦相手は、現在の静岡県・駿河の国を領有していた今川義元である。永禄3年(1560年)5月、今川義元は大軍を率いて駿府を発ち信長の領地である尾張にむかった。信長の軍はおよそ二千、対する今川軍は二万五千といわれている。一説には一万程度とする見方もある。いずれにしても、兵力の多寡の差は歴然としている。

 この戦いで信長は、家臣の多くが主張する籠城戦を選択することはなかった。少ない兵で城に閉じこもり、大軍に囲まれればひとたまりもない。当然、信長は籠城戦を捨てる。

 後述することになるが、それまでに信長は他の大名家では考えもつかないような組織改革を実現していた。そのため、今川軍に兵力では劣るものの、信長の指令から末端兵の行動までに恐ろしいほどの迅速性が確保されていた。

 今川軍は従来の大名家の典型的な軍隊なので、兵力は豊富でもその動きは信長軍に比べはるかに緩慢だった。

 信長は、この桶狭間の戦いを、「空間的発想」対「時間的発想」と位置づけた。空間的数量で押し寄せる今川軍に対し、時間的スピードで勝負する織田軍、という戦いのコンセプトを創造したのである。

 今川の大軍が縦に長くのびきった戦況を待ち、敵の先鋒をかわし、手薄となった本陣を横合いから衝く、それが信長の必勝戦略であった。東海道を京へのぼる今川軍は、案の定、縦陣隊形で尾張に進入した。途中、今川義元本陣は小休止する。その場所が、世に言う桶狭間であった。

 その情報をキャッチした信長は、直ちに命令を下し、自ら兵を率いて桶狭間に襲いかかった。対する今川も、信長本体の動きはしっかりとキャッチしていたが、その行動があまりに速すぎるために応変できない。当時の従来型の軍隊では、前日の夜に打合せしたとおりの軍事行動しかとれず、臨機の応変は困難だったのである。今川家は決して油断していたわけではない。

 勝敗は承知のとおりである。

 桶狭間の戦いの前夜の信長は、戦評定において、世間話だけをして重臣たちを屋敷に帰宅させている。家臣の多くは、織田家も万策が尽きたと考え、滅亡することを覚悟していた。信長にしてみれば、自分の戦略が敵方に漏れることを避けたかっただけなのである。

 ともかくも信長は、少ない兵力で大軍に勝った。しかし、この桶狭間以降、信長はこのような戦法を二度と使っていない。必ず敵に倍する兵力が集まるまで、攻撃を仕掛けていない。後述するが、桶狭間以降どの戦いも、敵の2倍、3倍の兵力が整ってから合戦に臨んでいる。

 信長自身、桶狭間の勝利は奇跡だったと思っていたのである。

 その後、浅井・朝倉の連合軍と戦ったいわゆる「姉川の戦い」では、敵に圧する兵力にものをいわせた迂回戦術で勝っている。

 また、甲斐の武田勝頼と戦った「長篠の戦い」では、大量の鉄砲を駆使して勝利をおさめた。あるいは、毛利の水軍との戦いには、世界ではじめての鉄張りの戦艦を投入した。

 こうして信長は、過去の成功体験に酔うことなく、主な合戦では実に独創的な戦略戦術で勝利している。

 ただ、このことを簡単に考えてはいけない。

 鉄砲の大量使用も、鉄張り戦艦の採用も、かれの組織改革という裏づけがあったればこその賜物で、たとえば、武田勝頼が鉄砲を大量購入しても、信長軍のように集団で連続発射させることは組織上できない。

 また、信長が敵に倍する兵力を常に動員できる政治力と経済力をもっていたのも、兵農分離という組織改革と楽市楽座という経済政策を苦労して実現したからであった。その詳細についても後述したい。