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議会報告 下天の幻

下天の幻 第3回
「信長になり損ねた秀吉」
2004/08/30    

 為政者にとって、ビジョンをもつことは重要である。

 群雄が割拠した戦国時代においても、明確なビジョンを示した為政者は少なかった。その点、織田信長と徳川家康は偉大である。また、そういう人物でなければ天下は転がり込んでこないであろうし、たとえ転がり込んだとしても、継続的な政権運営を実現することは困難である。

 たとえば、織田信長亡きあと天下を治めた豊臣秀吉には、ビジョンの明確さが欠落している。これは推論に過ぎないが、おそらく秀吉は本能寺の変という事実を確信するまで、天下を奪おう、などという大それた野心は持ち合わせていなかったのではないか。

 彼の野心とは、織田家という新興勢力のなかでいかに出世をするか、という程度のものであったろう。むろん、『太閤記』などにみられるように、天下を獲るまでの彼の業績の影にはたゆまざる努力がうかがえるし、貧民から身を起こした者ならではの実力と突き抜けた超人的運勢があったればこその成功であったに違いない。「本能寺の変」という天下をうかがう者なら誰もが欲しがる情報をいち早く入手したというのは、まさに幸運というほかない。

 しかし残念ながら、天下統一後の秀吉には、信長体制の継続という他に、明確なビジョンを見ることはできなかった。山崎の合戦で明智光秀を倒した後の秀吉は、いかに自分が正当な信長の後継者であるかということに金と時間を費やした。信長の嫡孫・吉法師の後見人は自分である、という政治的策略も忘れなかったし、信長の茶頭であった千利休を自分の茶頭とすることも忘れなかった。

 ともかくも、秀吉はその明確な国家ビジョンを持たなかった為に、唐入り(朝鮮出兵)という安易な軍事展開を行うに至る。

 ここで、この朝鮮出兵に至った要因について多少触れておきたい。

 現在、学校教育では、秀吉の朝鮮出兵を彼の野心によるものと説いているが、これも正確な学問とは言い難い。

 信長以来、秀吉が天下を統一するまでの武将の社会は、軍事的にも経済的にも典型的な成長社会であった。

 

 たとえば、武将の場合、合戦で手柄をたてればその褒美として領地を貰うことができた。当然、領地を貰えば食い扶持が増え、家臣を増やすことができる。また、作物の生産量も増えるので経済的にも豊かになる。その増えた兵力と経済力をつかって、次ぎの合戦でもまた手柄をたてる。

 結果、更なる褒美を貰い組織が成長する。これを繰り返した挙句、各大名家は常に人員過剰気味の雇用形態となっていった。成長基調の世の中であれば、常に先行投資をした方が有利だからである。

 それでも、奪い取る敵の領地があるかぎり領土経営は成り立ってゆく。しかし秀吉が天下を統一した段階で、奪い取るべき敵の領地は無くなってしまった。結果、秀吉配下の各大名組織の中に組織的フラストレーションが充満していく。

 組織の中に堆積した成長志向を抑えきることは難しい。

 企業経営でも、国内市場が飽和状態となれば海外市場に捌け口を求める。バブル時代の日本企業はあり余る資金を土地や有価証券に向けた。生産性のない資産に資金が集中すれば、当然のことながらバブルが発生する。

 豊臣時代の日本もまた、あり余る軍事拡張意欲を海外領土に求めたのである。

 それが朝鮮出兵、世に言う「文禄・慶長の役」である。

 文禄の役では16万の兵力を、慶長の役では14万の兵力を朝鮮に渡航させた。のべ30万にも及ぶ兵力とそれを裏付ける資金を費やすということは、とてつもないエネルギーである。作家・司馬遼太郎さんをして、

「いかに最高権力者といえども、これだけの大事業をたったひとりの独断と野心で行うことはできない」

 と、いわしめた。

 つまりは、ビジョンなき秀吉には、国内に充満した成長意欲を抑えることはできなかったのである。

 むろん、朝鮮出兵の要因はこれだけではない。

 たとえば、当時、ポルトガルをはじめとする南蛮諸国の貿易船が東アジアに進出し、明がおさえていた東アジアの交通関係を壊していた。あるいは、朝貢貿易と明国の冊封体制が緩んだ結果、倭寇貿易が盛んになっていた。これらの理由により、東アジアにおける明帝国の地位が低下していたのである。

 そんな東アジア情勢の変動も、秀吉の征服構想の背景にあったことを付しておきたい。

 結局、前後7年にわたって行われたこの「朝鮮出兵」という事業は、徳川家康らが朝鮮在陣の諸大名たちに撤退の指示をだして終了する。これを境にして、豊臣政権は坂を転げ落ちるようにして急速に衰えるのである。

 その後、天下を治めることになった家康は、この無益な事業を招いた「成長志向」を否定した。社会のコンセプトを成長から安定に変えたのである。

 前述のとおり、家康の国家ビジョンは「欣求浄土(ごんぐじょうど) 厭離穢土(おんりえど)」である。成長でなく安定した社会を浄土(じょうど)とし、安定を軽んじ発展成長を重んじる「成長志向」を悪しき穢土(えど)と位置づけたのである。

 そのため、成長意欲にかられた武断派の大名家を様々な言いがかりをつけて取り潰した。加藤清正や福島政則など、武勇をもって知られる大名は幕府創立後まもなく改易させられた。

 

 武勇とは、戦争に勝って領土を拡張しようとする精神であり、そのような精神は平和な安定社会にとって有害であると考えたからだ。

 また、家康は幕府成立後、各大名や武士たちに対し「ひげ」をはやすことを禁止した。ひげをはやすということは、武勇の誇示にほかならず、武勇を誇示することは、いずれ野心を満たすための戦争を施しかねないからである。

 加賀100万石の前田家は、いつ取り潰されるかもわからない大藩であった。しかし、前田家の藩主はひげをはやすどころか鼻毛にトンボを繋ぎ、阿呆を装った。私ども前田家には成長意欲などまったくありません、という凄まじいほどの幕府に対するメッセージだったのである。

 こうした成長抑制政策の結果、徳川260余年の礎が確立されていくことになった。しかし皮肉にも、徳川初期には、それまで軍事に注がれてきた各大名家の資金が専ら産業政策にむけられた為、5代将軍の元禄時代まで著しい経済成長を成し遂げることになる。

 それは、信長が天下布武のもとに築きあげた自由経済、市場経済体制の余力であったとも言えよう。

 

 さらには、士農工商という身分階級が確立したのも、信長の行った兵農分離政策によるところが大きい。

  

 そもそも、信長という改革者の登場なしに、秀吉の天下統一もありえなかった。今川家であろうと、武田家であろうと、信長以外の大名家では秀吉のような下賤なものが出世することはできない。織田家に限って、秀吉や明智光秀や滝川一益などの流浪のものが、大軍の将となり得るシステムを築き上げていた。それを為しえたのは、天下布武という明確なビジョンが組織体制の根底にあったからなのだが。

 秀吉の天下も家康の天下も、信長の天下布武なしには成立し難かったことを考えると、人が時代をつくり、時代が人を動かしている歴史の面白さを実感せざるを得ない。

 どこの国でも、国家の最高権力者のことを指導者という。

 指導者とは、指をさして民を導く者をいうのである。

 

 やはり、信長と家康は世界に誇るべき稀代の指導者であったろう。

 むろん、下賤の身から天下をとった秀吉の栄光にも敬意を表したい。

次号につづく